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ギャンブル依存症と私 (その1 パチ屋との出会い)

前回書いた「ニトロペン」について、「好きならば、パチ屋の中で死ぬのは本望なのでは?」というコメントをTwitterで頂戴いたしました。まあ確かに、そう思われる方も多いとは思いますが、やはりあそこで死ぬのは恥だと考えていましたね。

「息子がパチ屋で死んだなんて知れたら、父と母が世間の人たちからどんな目で見られるだろう…」って感じですかね。依存していても、少しばかりの世間体は残っていたんです。

さて今日から、私のギャンブル歴について書いていこうと思います。例によって「たわ言モード」ですが、お付きあいいただければ幸いです。

書いていくのは、以前に自身のブログに投稿した記事の焼き直しでもあります。青年期の備忘録といいますか。

悪友はお互い様

いつの世にも、ロクでもないことを教える輩が居る。ボクの場合、高校生の頃がそんな時期だった。 

初めてボクをパチ屋に誘ったのが、近所に住むいわゆる「ロクでもないヤロー」だった。名前は、仮に「I」とでもしておこう。彼はウチの家から歩いて2分のところに住んでいた。頭の良い奴で、悪さをしているにもかかわらず、地域では屈指の進学校に通っていた。

まあ近所にそういったのが一人でもいると、かなり人生大きく変わる。ボクも例外ではなかったということだ。

ボクにとって生まれて初めての、いわゆる「※ナマ本」ってのもそいつが持ってきたものだった。今になって思えば、よくこれだけ悪いことばかり手ほどきしてくれたもんだと笑えてくるが、あいつにマージャンを手ほどきしてやったのはボクだ! まあ、あいこってことなんだろう。(※生本: 無修正のエロ本のこと)

初めてのパチ屋

とある日のこと、彼からパチ屋に誘われ「警察にパクられるのが怖い」と言ったら、「お前、玉ぶら下げとるんか?」とあざ笑われた。しぶしぶ付いて行ったのが、当時駅前にあった今は無きパチ屋だった。

あの頃のパチンコって、まだ手打ちだった。その日は500円使って2000円近く出し、震える手で玉を景品の文鎮に交換したことを憶えている。

余り玉のキャラメルまで景品交換所の窓の中に入れて、交換所のオバサンに大笑いされた。ボクとパチ屋との出会いはそんなウブなもんだった。

あの時、打った球の1個がたまたま入賞しチューリップが開いた瞬間から、ボクはパチンコの虜になった。こうしてボクとパチとの長い付き合いが始まるわけだが、先々自分がギャンブルに依存するなど当時のボクに知るよしも無かった。

ちなみにだが、このときのパチ屋がボクの初ギャンブルではない。ボクが生まれて初めてしたバクチは、小学生当時に住んでいた近くの公園で経験したビー玉賭けだった。

その後勝った金でそいつと喫茶店に行き、ウイスキーコークを注文してセブンスターを吸った。少し大人になったような気がして、なんとも嬉しかったことを思い出す。

女友達が多いあいつが眩しかったっけ…。あの頃のボクは、少しグレていないと女の子にはもてないと信じこんでいたんだ。で、確かに学内でも真面目な奴がバカにされたり、イキった奴が人気者だったりといった風潮はあった。

そうこうするうちに彼は急に転校し、風の頼りに補導されたと聞いた。今はどうしているのだろう。

パチがバイト代わり

高校1年でパチ屋を知り、大学生の頃はパチンコがバイトの代わりになっていった。釘が読めるようになってからは、負けなかった。

叩いた釘とそうでないのとが、一目でわかるようになったのもこの頃だ。 あの頃のボクは視力が飛びぬけていたので、釘を見るのなど朝飯前だった。先輩からパチ屋は貯金をおろしに行く場所と教えられ、プロを気取って肩で風切って歩いてた。

ボクがネグラにしていたホールには、少なくとも4人のプロが居た。学生だったボクと先輩はそんなことには臆せず、堂々と抜いた。

クラブの練習が始まるまでに、何とか1台抜こうと頑張った。 今考えると、よくそんな時間があったなと思えるが、不思議なもんだ。

大学の講義は、出席を取られる語学以外殆ど出席しなかった。というよりも、語学以外の講義に出るとクラブの先輩から渋い顔をされた。信じられないが、あの頃の文系学部なんて、そんなもんだった。

新歓コンパでは先輩の酌を断れず、新人はほぼ全員がつぶれた。救急車を呼んだことも2度ばかりあった。驚くべき縦社会である。

クラブの遠征も試合の時も、食事は全て先輩が新人におごらねばならなかった。今では信じられないことだが、それがあの頃の「伝統」であり「しきたり」だった。

ボクは古き良き時代だったとは思わない。肯定したいとも思わない。全てのことが欺瞞に満ちた偽りの時代だったからだ。(続く)

下のリンク、ボクが書いた短編です。読んでみてね。


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