見出し画像

ハプスブルク家のクリスマスツリー

トップ画像は、Wikimedia Commonsよりお借りした ウィーン・シェーンブルン宮殿のクリスマス風景です。
(撮影者: Simon Matzinger, CC BY 3.0)

真ん中にクリスマスツリーが見えるので、すぐにその季節の風景と分かりますね。
しかし、今では当たり前に思える「クリスマスにはツリーを飾る」という風習、昔のオーストリアには存在しませんでした。

今回は、オーストリアにおけるクリスマスツリーの普及に、ハプスブルク家が大いに関わったというお話です。


オーストリア初のツリー

最初にオーストリア国内でクリスマスツリーの記録が見られるのは1814年の事。
ただこれはハプスブルク家のものではなく、ユダヤ人の銀行家の家で催されたサロンに飾られていたのだそうです。

イメージ・Public domain


この家の女主人がベルリン出身で、ツリーの習慣は彼女が持ち込んだと考えられています。

ハプスブルク家初のツリー

ハプスブルク家にツリーが持ち込まれたのは、それから2年後の1816年でした。
あの女帝マリア・テレジアの孫であるカール大公の妻が、故郷のドイツから伝えたのだそうです。

カール大公の妻、
ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ
・フォン・ナッサウ=ヴァイルブルク 
Friedrich Johann Gottlieb Lieder画
Public domain / Wikimedia Commons
ヘンリエッテの娘のために、このような
キャンドルを12本灯したものが最初だそうです。
(写真はイメージ)
Gebril / CCBY-SA3.0 Wikimedia Commons



オーストリア皇帝フランツ1世がこれを気に入り、宮廷にもツリーを設置させたのだとか。

一般家庭のツリー

ここから徐々に一般家庭にもツリーの習慣が浸透。
1829年までには、街中でもツリーを販売するようになりました。

(2021年、ウィーン市内におけるクリスマスツリー販売開始を知らせるツイート。でかい!)↓


これはつまり、プロテスタント国ドイツの習慣が カトリック国の宮廷〜庶民の家に持ち込まれたという事で、なかなかにセンセーショナルな動きだったと想像されます。

クリスマスツリー普及の理由

では、なぜツリーの習慣が受け入れられたのでしょう。
その答えの鍵を握るのはこの方、
ご存知ナポレオン・ボナパルト

ジャック=ルイ・ダヴィッド • Public domain
Wikimedia Commons


勘の良い方はお気づきと思いますが、先述の「オーストリアで初めてツリーが記録に登場した」1814年は、ナポレオンが失脚した年

これ以降、彼がしっちゃかめっちゃかにしたヨーロッパを 以前の王様が強かった時代に戻そうとする動きが権力者たちの間で現れます(ウィーン体制)。

上: ナポレオン全盛期のヨーロッパ
(ピンク線内がナポレオン支配下の国)

下: ナポレオン失脚後のヨーロッパ
(ピンク線が消滅、赤線はドイツ連邦の国境)

Alexander Altenhof • CC BY-SA 3.0
Wikimedia Commons



このような動きの中、一般市民たちはすっかり諦めモードに。

装飾的で力強い雰囲気が特徴だったナポレオン時代とは対照的に、穏やかに慎ましく暮らそうじゃないかという空気が主にドイツやオーストリアで広がります。
これをビーダーマイヤー時代と言います。

私は17〜18世紀版「わびさび」「ていねいな暮らし」と勝手に解釈しています。

ビーダーマイヤー時代の、湖のある風景。
作者不明・Public domain / Wikimedia Commons


ビーダーマイヤー時代とクリスマスツリー

ビーダーマイヤー時代の家族を描いた絵。
作者不明・Public domain / Wikimedia Commons


このビーダーマイヤー時代の特徴のひとつに、「家庭生活に重きを置く」というものがありました。
その影響もあり、これまでクリスマスは教会のミサに出かけるという習わしだったのが、家庭にツリーを飾って一家団欒を楽しむという動きになっていったようです。


つまり、プロテスタント国からもたらされたクリスマスツリーを飾る習慣が、当時のオーストリアの社会的風潮にも合っていたという事でしょう。

ついでに言うと、宮廷にツリーを採用したオーストリア皇帝フランツ1世も ビーダーマイヤー風の素朴な様式がお好みだったようです

ビーダーマイヤー様式の、クリスマスの朝を描いた絵。
左後方にうっすらクリスマスツリーが見えます。
Ferdinand Georg Waldmüller画・Public domain
Wikimedia Commons


保守派の声

とは言え、みんながみんな手放しでこの新しい習慣を受け入れた訳でもないようで。

先にご紹介したフランツ1世の弟、ヨハン大公は、子供達がプレゼントの置かれたツリーの周りでキャッキャしているのを見て

「ワシが小さい頃は、クリスマスと言えばキリスト降誕を祝うもんじゃったのに…」
(勝手におじいさん口調)

と、宗教的というより祝祭的な意味合いが強くなっていった傾向を嘆いていたそうです。

ヨハン大公
レオポルト・クーペルヴィーザー画 • Public domain
Wikimedia Commons


おわりに

しかしそれから200年後の現代、ウィーン屈指の観光名所・聖シュテファン大聖堂には、建物の中にも外にも大きなツリーが飾られるように。
ヨハン大公の思いとは裏腹に、結局ツリーはクリスマスに欠かせないものとなったようですね。


それでは皆様、よいクリスマスをお迎えください。
ご覧くださりありがとうございました。

関連記事

昨年書いたクリスマス記事です。
イギリスで最初に飾られたクリスマスツリーも、ドイツから持ち込まれた習慣で…
続きはこちら↓↓↓


歴史系noterのビッグネーム、千世さんの記事でこちらの記事をご紹介頂きました、ありがとうございます!

日本人のクリスマスに対する考え方が非常に興味深い内容となっています。
なんと、お寺系幼稚園でもクリスマスを祝う所があるとか…?続きは記事内にて!↓



参考

・The World of Habsburgs
O Christmas Tree – the Habsburgs and the Christmas tree

・pagewizz.com
7 Fakten zur Weißtanne - oh Tannenbaum, oh Weihnachtsbaum

・Wikipedia
ビーダーマイヤー
Biedermeier

・visitingvienna.com
The Biedermeier Era in Vienna

・ハプスブルク家の人々


#クリスマスの過ごし方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?