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岐阜県へ(3/3)白川郷

茅葺きの屋根を見下ろす紅葉山
子は手水舎の流れを見つめ

鍾乳洞からドライブすること1時間弱、息子と私が眠っているあいだに、白川郷についた。

紅葉が美しい
水の流れるところに興味津々
この辺の景色は、もう日本的でない。少くとも私が日本でかつて見たことのない風景だ。おびただしい栗の樹、白い花をつけているのもある。これはむしろスイスか、さもなければスイスの幻想だ。背景に連互する雪を戴いた山並みは、この錯覚をいやが上にも強める。広闊な深い谷の中に、尖った藁葺屋根が嵌めこまれている景色もまた日本的でない。ただ水田があるので、やはり日本だったとわかるのである。
ブルーノ・タウト『日本美の再発見』岩波新書 訳者 篠田英雄

ブルーノ・タウトはドイツ生まれの建築家で、ナチス政権から逃れ数カ国で暮らし、そのうちのひとつが日本だった。

上述の旅のエッセイには、日本文化への正直な反応も多い。
下呂温泉街については、俗悪、宿泊客が女性を部屋に呼ぶ、人は邪慳で偏固で意地が悪く、憂鬱、など。

白川村から平瀬については建築を賞賛し、人々は車の運転が丁寧ですれ違いざまは常に笑顔を絶やさない、模範的、など。



我々が訪れた頃、白川郷には外国人観光客の姿も戻ってきていた。
「こうも円安じゃな」夫がぽつり。


この日我々がお世話になった宿は、白川郷の民宿で、300年の歴史を持つ家屋である。

白川郷に泊まるのは長年の私の夢だった。

民宿「十右エ門」さんの入り口
お庭



まるで、「まんが日本昔ばなし」の世界!

来れて良かった…!

お食事処

洗面所、トイレやお風呂は共同で、家は古く、設備は新しい。




チェックイン後に集落を散策した。

養蚕業をしていた「和田家」にお邪魔した。

現在も実際にお住まいのお宅だった。

内部


白川村は、一年の三分の一は雪に閉ざされ、外部との関わりを絶たれた秘境だった。

平家の残党が住み始めてから、人が殖えていった。 

長男が家長で、次男坊以下は、農奴のような立場だった。
彼らに子供が生まれ、一つの家に30人くらい住む大家族となった。


豪雪地帯には、茅葺き屋根が合理的だそうである。
茅葺き屋根のメリットは雪に強いこと、
デメリットは、火に弱いこと。
火災が起きた時あっという間に広がってしまうから現在では、茅葺き屋根の新築は禁止されている。 


お風呂は家族で貸切で、お風呂場の外の、ホワイトボードの空き時間に名前を記入して入る。

夕方5時に宿に戻り先にお風呂、その後夕食をいただいた。

飛騨牛と銀しゃりには罪悪感が。

赤い蕪のお漬物、お豆腐、山菜、イワナの甘辛煮、全て美味しかった。

いつもなら九十歳になられる宿の大女将が、宿泊客のために、夕食の席で富山のこきりこ節と、美濃の民謡をお三味線を弾き聴かせてくれていたが、このご時世、歌を自粛なさっているそうだ。



翌朝早朝、夫はやはりジョギングに出かけた。

どうでした?

「すごく良かった。本当に静かで」


チェックアウト時、旅行支援の割引の件で観光協会からの電話を待つあいだ、「岐阜たびコイン」のアプリをインストールした。

1人あたり3千円分のお買い物券が手に入る。

六千円の棚ボタにより気が大きくなって(ただでさえ旅行の時はお土産買っちゃうのに)実家や職場へのお菓子をたくさん買った。

名物「紫蘇もなか」

この最中は美味しい。
あんに、紫蘇の香りと塩味がほんのり効いている。

生産工場は、ちゃんと白川村だった。安心安心。


(終わり)

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