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いつだって最後は希望で終わらせたい

テーブルに無調整豆乳のパック。

そしてこの前Amazonで買ったお気に入りのグラノーラ。そして隣では彼がCoCo壱のカレーを食べている。夫婦違うものを食べる晩ご飯に不快感は基本的にない。同じ空間で、ちがう時間を過ごす。彼は映画を観て、私はこうして言葉を書いている。そうやって、今日も時を過ごしている。

晩ご飯に朝ご飯を食べる。私は朝ご飯というカテゴリーが好きで夜でも昼でも、朝ご飯を食べている。

グラノーラに無調整豆乳を入れて夜21時頃に朝ご飯を食べている。目の前で流れている映画をたまに観て、観ているふりをする。目線を無調整豆乳のパックに戻し、裏面を見る。そこには『豆乳無調整レシピ サバ味噌缶で作る和風リゾット』と書かれてあった。サバ缶なんて久しく食べてないなぁと思う。ましてや無調整豆乳と合わせてなんて、食べたことないなぁと思う。ふうん。と思う。そっかぁと次は思う。そしてニュースの最新情報を見る。ウクライナで死んだ子どもが100人に達したと書いてある。一向に進まない世界。言葉に私が届かない。

なにがこんなにも複雑にさせているんだろうか。なにがわたしにはできるんだろうか。なにもわたしにはできないんだろうか。なにもわたしにはできないんだろうな。私の言葉が、直接的になにかを救うことは何一つない。それでもこうして言葉にし続けることや考え続けることが偽善者で終わらない、ひとつの手段なのかもしれないと思う。そう思い続けたい。あとは寄付という手段を一瞬のもので終わらせないことなのか。お金が子ども達の生活に代わり、どうか一日でも早く届くことを心から願う。本当に。

世界で今起きていることと同じ時を生きている私の個人的な問題はあまりにも比べるほどに、考えるほどにも至らない。それほど、この戦争という事実が私の視点を良くも悪くも広くさせている。

こんなにも時間が過ぎているのに進展のない現状に、正直心から途方に暮れている。もう何度、夕暮れになったことか、いつになったら私は私を生きることができるのか、こんな理不尽なことってあるかな。並べられた全てが私以外だけにあまりにも都合がよく完成度の高い色々。私の人生なんてものはどうなろうと、私の人生はどこにもどこまでも誰かには関係ないようで、幾度となく私が途方に暮れようとも、誰かが私に同情を買うことはない。ただ思う。同じように朝がきて、同じように家族がいるのに、どうしてなんだろう。

だからといって私自身にあからさまな態度で私に同情することはなく私は私に希望する。友達にだって、彼にだって、世界にだって希望をもちたい。いつだって明日しかないのだからこれまでにどれほどのことを思おうが、感じようがどうしたって明日しか訪れないのだから。悲しみはできる限り今日という場所に置いて希望だけを明日に持っていかなければならないと思う、持っていきたいと思う。

人間同士なのだから、言葉がある。言葉があるから、希望がある。希望は喜びに変わる。喜びはさまざまなものへ作用し、くまなく確実にゆるやかに行き渡るものだ。

だから私はどうにもならない立体感のない失望を希望に変える選択をし続ける。私達にはいつだって、明日があり今日は終わる。だから明日のために希望をもつ。

それが未来というものだと思うのだから。

イズミ

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一日でも早く安心を取り戻したい。

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