見出し画像

話すこと、書くこと、延いては無価値のままで存在すること

 いつの頃からか、話すこと、書くことが苦手である。とはいえ、学生時代の塾講師のアルバイトも含め、7年近く、教師の仕事をしているから、人前で話すことに緊張する、といった類の苦手では、多分ない。
 自分の話す内容に、書く内容に、いつしか価値が感じられなくなった。元々、自分の内から価値のある言葉など出てきたことはないことに、気がついてしまった。そういう感覚が近いと思う。友人や会社の人間、子供たちは、なぜそうも自信を持って自分について話せるのだろう。そう思うようになってしまった。
 そのきっけが何なのかは分からない。学生時代を充実して過ごした周りの人間と、外からは活発に見えても、内面的には充足を感じられなかった自分との違いかもしれない。
 あるいは、教師をしているうちに多くの文章に触れ、それらを咀嚼し、教える学年相当の言葉で解釈し直し、生徒たちに伝える、という作業を繰り返してきたことで、他人の内容のある言葉が、自分の身体を通過して行く感覚、自分は、自分の言葉ではなく、他人の言葉の通過点でしかない、といった感覚が強まったのかもしれない。
 本や映画、ラジオを楽しむことで、語ることを持つ人間と、自分の関心分野にも、心の内に想起することにも、うまく輪郭を与えることのできない自分との対比構造がはっきりしていったのかもしれない。
 自分の体験や考えなどは、すでにあらゆる媒体で繰り返し語られ尽くしていて、初めて自分で到達した考えや感覚も、もはや、かつての誰かが語った言葉の、色の褪せた焼き直しでしかない。そういう感覚が自分の口を重くさせ、語る言葉をさらに奪っていっているのだと思う。
 ここまで書いた内容も、すでに誰もが思ったことなのだろう。改めて書くまでもないことなのだろう。それでも、他の誰にとって価値がなくても、自分のために、人は言葉を発していいのである。そう思わないといけない気がする。自分の言葉に価値を見出せず、言葉少なになっていく。そのうちに人との交流もなくなっていく。自分の存在に疑問が生じるようになる。
 自分に価値などなくても、無価値のままで存在していていい。そういうふうに、自分を肯定するためには、自分の発する言葉が他の誰かと同じであっても、すでに描かれて尽くした感情であっても、それでも同時に自分だけのものである、自分のものとして語っていいと思わなければいけない気がする。何もできなくても、誰かのために役立たなくても、世界の片隅に存在していていい。そう肯定するために、少しずつ、価値のない言葉を取り戻す手段として、いつか話すためのエスキースとして、書き綴っていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?