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感情の器、あるいは鏡としての絵画

 高校生のときから、私は美術館に通い始めた。当初から美術自体には興味があったし、絵画や彫刻を眺めることは好きだったが、それ以前には意識的に美術館に足を運んだことはなかったと思う。美術館へは、当時、好意を抱いていた友人と出かけるための口実として、通うようになった。相手も美術が好きだった。その友人とは大学の半ばまで、定期的に美術館に行っていたが、次第にその頻度が減り、気づくとその習慣はなくなっていた。
 一緒に行く相手がいなくなってからも、私は一人で美術館に行き続けた。美術館に通い始めて十年近くになり、ようやく、美術史の線のようなものが、朧げながら見えるようになってきた気がする。どこかでやりたいとは思いながらも、これまで体系立って美術史を学んではこなかったが、今まで見てきた絵画や彫刻が、それぞれの生まれた時代や、芸術家たちの相関図に自分の居場所を見出して、ジグソーパズルのピースのように収まっていく。
 美術館にいて好きな瞬間は、解説文を読む前に、絵だけを見て、その作者がわかったり、知らない画家であっても、その筆使いから、誰から影響を受けたかが察せられたりするときである。宗教画や神話画では、描かれている場面や人物が特定できたり、一見面白みのない静物画の中に、信仰や死を見出せることもある。様式にしろ、内容にしろ、浅くはあっても知的な側面から絵画を楽しめるようになったのは大きな収穫だと思う。
 こうした知的な楽しみとは別に、美術館の個人的な効用は、その時々の感情を収める器となる作品を見つけられることだと思う。自信に満ち満ちたレンブラントの「34歳の自画像」は、就職をし、働き出したばかりの私の表情を写したものだったし、ムンクの「接吻」は相手を求める自身の感情と重なった。沼の底に沈んだような気持ちでも、人前に立たなければいけないとき、マネの「フォリー・ベルジェールのバー」の女の目は、私の目そのものであったし、ゴッホの「悲しむ老人」は私の絶望の友になってくれた。
 自分の感情がわからないとき、絵がその感情を鏡写しのように教えてくれることもある。ゴーギャンが描くタヒチの女たちや、ピカソの絵のアフリカの影響に意識が向かうとき、ここではないどこかに行きたがっている自分に気づく。ルノアールの色鮮やかな人物画を見るとき、せめて絵の中だけは楽しみで満たしたいという彼の意思と同様、楽しみや慰めを求めている自分の存在に気づく。ハンマースホイの静寂を目が探しているとき、日常の喧騒に嫌気がさしていることに気づく。あるいは、絵画の中の蝋燭や金の鍵に目を惹きつけられるとき、初めて、救われたいと思っている自分に気づくこともある。
 不純な動機から始まった美術館巡りではあるけれど、次第次第に美術そのものを求めるようになっていった。人類が蓄積してきた視覚芸術の中に、自分のものだと思っていた感情、あるいは自分でも気づかなかった思いを見出すこと。現実の人間関係の中では共有しにくいそれらの感情や思いを、絵画は静かに受け入れて、映し出してくれる。捻れた感情を持て余しているとき、その器としての絵画、その鏡としての絵画に頼りながら、自分の感情をケアしていきたい。

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