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通過儀礼としての夢

 子供の頃、熱を出すと、必ず同じ夢を見た。

 夢の中では、視界の全てが白黒で、一人称視点と、三人称視点が交互に映し出された。三人称視点で、自分を外から眺めると、私は宙に浮いたメビウスの輪の上にいた。灰色の、凹凸一つない、無機質な道で、左右どちらにも、落ちるのを防いでくれるような手すりはついてなかった。道と書いたが、実際には帯に近いものだったかもしれない。
 その帯の外側は、ただ、暗い無が広がっているばかりで、絶対に落ちてはいけないと直感できるような空間だった。
 帯の上の私の眼前に、道幅いっぱいの黒い球体が一つ、降りてくる。子供の私を押しつぶしたり、跳ね飛ばしたりするには不必要なほど大きな球体だった。夢の舞台はこの球体の登場で整う。
 球体は私を一定の速さで追いかけ始める。決して速過ぎはせず、しかし、休んだり気を緩めたりすることは許されない、悪意あるスピードで延々と追ってくる。いっそ一思いにスピードを上げて、終わらせてくれた方が早く解放されて、よかったのかもしれない。とはいえ、自ら足を止めて、球体を迎える勇気はなく、恐怖で必死に逃げながらも、追いつかれれば、球体につぶされるか、外の無に弾き飛ばされるかするのだろうと、落ち着き払って考えている自分もいた。
 夢の終わりでは、走りながら振り向くと、球体も帯も、それを包む無も、古い写真が日に焼けて白んでいくように、少しずつ、その存在を退色させていく。
 目を開くと、まだ残像のように球体の影が朧げに残っているけれど、目が映す白黒の存在は、もはやその球体の残像のみで、周囲の世界はゆっくりと色彩を取り戻していく。障子の向こうから差し込む淡い光に当てられた畳のいぐさ色や、テーブルに使われている木材の茶色、花瓶に飾られたミモザの黄色、ベランダの鉢に植えられた植物の緑、水槽を泳ぐ金魚の赤が、白黒の世界から私を保護してくれる。

 文化人類学の通過儀礼についての概念の一つに、「コミュニタス」というものがある。通過儀礼は成人式や結婚式、葬式などに代表されるように、ある境界を超えることで、別の段階に入るという側面を持つ。成人式では子供が大人に、結婚式では未婚者が夫婦に、葬式では生者が死者になる。文化人類学者のヴィクター・ターナーは、通過儀礼における、この「過渡」の側面を「境界状況(liminality)」ととらえ、そこで生じる日常の秩序が逆転した混沌状況を「コミュニタス」と名づけて、分析した。日常と日常の間にある非日常(コミュニタス)を経験することで、硬直した日常から脱し、新たな日常が活性化するという。

 私が熱を出したのは学校や習い事などで精神的に疲弊したときが多かったように思う。そして球体に追われる夢は、その熱が引いていく最後の段階で見た。朝には、体温は平熱に戻り、身体も楽に動かせるようになっている。
 日常の色がくすみ、硬直したことが、発熱と夢という非日常を産み出した。白黒になった世界というコミュニタスを経験することで、目覚めに、日常の色彩との一層のコントラストをもたらし、日々が、再び色付くように作用する。日常に倦んだ私から、熱と夢というコミュニタスを経た、活性化された私への再統合。夢占いや夢診断が語るような、夢からの啓示といったものは信じてはいないし、この夢に本当に意味があるとは思わないけれど、夢というものをほとんど見なくなった今、昔見た夢を、文化人類学的な視点で眺めてみてると、何かしらの意味が与えられるのかもしれない。

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