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三木成夫を読んだ記憶から

 人間の臓器の内で唯一、意思によってコントロールができる(ときにはしなければならない)ものが、肺である。旅立つ前の最後の晩餐、故郷の味をまだ充分に身体に蓄えていないのに、胃は、これ以上の食べ物を拒否する。自分の意思で胃を動かして、消化を早め、さらなる味を迎える隙間を用意することはできない。しかし肺は、意思によってその動きを変えることができる。息を潜めて隠れなければならないとき。森の奥で澄んだ空気を深く吸い込みたいとき。身一つで、色彩豊かな海の中へと溶け込みたいとき。人は意識して呼吸のリズムや深さを変える。
 以前、解剖学者の三木成夫の著作をいくつか読んだ。人間という存在を、太古の海に現れた一本の管から始まる、悠久の進化の賜物として、描いていた。そしてその描写には、科学的根拠や解剖学的知見のみならず、三木の内部に蠢く思想や哲学の影が色濃く落とされていることが印象に残ったように思う。
 今、手元に三木の著作はないから、ここに書く内容が本当に三木の書いた内容なのかは分からないし、現代科学から見て、三木の説明がどの程度正しいのかも分からない。しかし数年経った今でも、三木の言葉(だと私が思っているもの)は、その根を深く私の中に下ろしている。
 肺はなぜ、意思によって動かせる臓器となったのか。
 原初の海で生まれた我々の祖先である一本の管状の生き物は、次第にその管の周りに、必要な機能を付与されていった。栄養を取り入れる口と、その排泄口である二つの穴を左右(前後、上下)に持つ管。魚類になるまでの段階で、生命維持に必要な、各種臓器が管に取り付けられていく。呼吸は鰓に任された。これら生命維持の基礎となる臓器の活動は内臓壁を成す、不随意筋によっていた。つまり、それらの臓器は誕生の時点で、すでに、意思とは遠く隔てられていたのである。
 海で生まれた生命は、気の遠くなるような時間を波打際での進退に費やし、最後には陸地に到達した。陸上生活で必要になるものの一つが肺である。何億年もの間、鰓が担っていた呼吸という仕事を陸上で引き継ぐために、後から生まれた臓器が肺ということになる。そして陸に越す際、肺と同時に必要になるものが、手脚である。この段階で新たに生まれた器官である肺と手脚。随意筋である手脚は、内臓を取り囲むように、それらの外側を覆っていった。これまで生命維持の機能を受け持っていた不随意筋には肺の面倒を見る余裕がない。そこで新参者である肺と手脚が手を結ぶこととなり、臓器の中で肺のみが意思によってコントロールされることになったのである。
 このようなプロセスを経て、肺は体外壁を成す随意筋に管理されるようになった。生命維持の根幹である呼吸が意識しないとできないものになった。
 ディテールに誤りなどはあれど、これが内臓のうち肺のみ、意識でコントロールできる理由の概略だったと思う。
 だから、時々、呼吸を忘れるのかと、腑に落ちた記憶がある。ヒマラヤの山頂で写真家は息を呑んで、その景色を目に焼き付け、カメラに収める。「息を呑む」という表現は英語では breathtaking である。まさに目の前の景色のために、意識に忘れさられた呼吸は、人間から奪い取られるのである。異言語間における共通の表現の元には、人間の身体的構造があることにハッとさせられた。
 通勤通学の電車内の広告、街中に所狭しと並ぶ看板、スマートフォンからの通知。常に意識を他に奪われる生活の中で、「息詰まり」を感じるのも、進化の過程で応急処置的に取られた、肺を手脚に任せる、という選択の結果なのだと思うと、許してやりたくなる気がする。病気や怪我、老いなどがなければ、何不自由なく動いているように感じられる身体は、呼吸という作業をも意識なしには行えないように設定されていた。
 人間が作ったこの社会が生きにくい(息にくい)のではなく、そもそも、この社会を作り上げた人間に初めから生きにくさ(息のしにくさ)が宿命付けられていたのであれば、もはや、ある程度の不便や困難には心を動かされずに、仕方がないと、平穏な心持ちでやり過ごすことができるような気がする。
 肩の力を抜くことは、同じ随意筋に任された呼吸をしやすくすることでもある。息のしにくい身体を与えられたことは、実は、息のしにくい社会を作ることになる人間に、その息を自らの意思でコントロールできるようにと授けられた恵みなのかもしれない。息のしにくい身体が先か、息のしにくい社会が先か、循環に陥る言葉遊びでしかないかもしれないけれど、この身体と社会が、私に至るまでの生命が何億年もかけて編み出した答えだとすれば、それに争わず、できるだけ肩の力を抜いてやり過ごしてしまってもいいのかもしれない。
 三木の思想が学術的に正しいものなのかは分からない。けれど、現代社会を生き延びるための御守りとして手元に残し、折に触れて参照したい思想だと思う。

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