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絵の中の四季を散歩する

 昨年、九月の末である。東京メトロ半蔵門線清澄白河駅を出て、じっとりとした雨を降らせる灰色の空の下を歩き始めた。蒸し暑い空気の塊が身体にまとわりつき、歩を進めるほどに、肌からは汗が噴き出してくる。傘に遮られることのなかった雨粒が、肩や足元を濡らし、そのうちに汗と雨粒の区別もつかなくなる。こんなことなら天気の良い日を選ぶべきだったと、今朝の自分を恨みつつ、私は目的地の東京都現代美術館に急いだ。

 デイヴィッド・ホックニーの展覧会が開催されている。現代美術には明るくなく、iPadで描かれた絵と聞いてもあまり興味は湧かなかったのだが、現代美術の第一線にいる画家ということもあり、半ば義務的に足を運んだ。
 会場に入ると、近しい人々を描いた肖像画や、花や鉢など身の回りのモチーフを描いた静物画、竜安寺の石庭のフォト・コラージュなどが広がっていた。油彩やアクリルでカンヴァスに描かれているものもあれば、フォト・ドローイングもあり、異なる画材の感触を楽しむ子どものような画家だと感じた。
 iPadによる絵は、2010年、ホックニーが73歳の頃から描き始めたらしい。絵筆で描く線とは違い、デジタルの筆は、その線に色の濃淡や明暗、擦れなどを持たず、私が使えば毒々しい着色料で描かれた画面に留まるしかないだろう。しかしホックニーの画面は、確かに一本ー本の線の表情は絵筆のそれに比べると味気ないように感じられたけれど、見る者を絵の中に引きずり込む力を湛えていた。ホックニーが幼少期を過ごしたのはイングランドのヨークシャー東部であるらしい。そこの自然や街並みを描いた風景画と向かい合っていると、だんだんと、自分が実際にその場にいるような感覚になってくる。目の前に描かれている道をそのまま進んでいけば、幼いホックニーが歩いているのではないかと思わせるような、そんな空気が漂っている。だから本当は、「絵の中に引きずり込む」ではなく、むしろ、画面が鑑賞者を優しく取り囲み、今いるここからホックニーを包んでいた空間へと導いてくれるような、そんな印象が正しいのかもしれない。
 展示の最後に配置された《ノルマンディーの12か月》はiPadで描かれた、全長90メートルに及ぶ大作で、画面は一望には収まらず、展示場全体を歩きつつ、ノルマンディーの四季を散歩するような作品だった。2019年に居をノルマンディーに移したホックニーが、2020年から2021年の一年間をかけて、周囲の自然の移ろいを写し取ったものである。 
 冬から始まり、新しい冬を迎えて終わる本作は、画面に沿って足を運ぶことで、ノルマンディーで画家が吸った空気を吸い、画家を暖めた陽光を浴び、画家が耳にした木の葉の囁きを聞き、画家に降り注いだ雨に濡れ、画家とともにその辺境の町と季節の中を歩き、案内を受けるような作品であった。白い雪原に寒々と立つ葉を落とした木は、数歩進むと、若葉と黄色の花で化粧をし、暖かな陽気の中、緑の大地に憩う。万緑の合間から木漏れ日が差す青空の日々の間に、雨の一日が木々を癒す。夕方の日が辺りに橙色のベールを被せ、果実の香りが漂い始める。紅葉した木々と、落葉により彩られた道を辿れば、やがて新しい冬が全てを白に戻して、ノルマンディーの一年が終わる。
 この90メートルを歩く数分間、私は確かにノルマンディーにいた。デジタルの筆で描かれた四季は、確かに一瞬一瞬に画家が味わったノルマンディーの空気を伝えてきて、新たな画材を否応なしに、私に受け入れさせた。

 美術館を出ると、雨脚はさっきよりも強くなっていて、瑞々しい深緑の葉を濡らしている。アスファルトの歩道は黒く染め上げられているけれど、来たときに感じた不快さはない。濡れ始めたズボンの裾もひんやりと冷たく心地のいいものに感じる。ここにいるのがホックニーであれば、今見ているこの景色も、東京の12か月を描く作品の一部として迎え入れられるのかもしれない。

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