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三文生活 九月初週

 八月最終日から伏せっている心を引き摺って、今週は旅行に出ていた。正確には旅行に出た日の夜から、心が寝込み始めたのだけれど。

 ベトナムの建国記念日で、四連休となっていたので、ハノイから車で二時間ほどの場所にあるニンビンに行った。かつて都が置かれ、今ではいくつかの世界遺産がある。観光地になっているため、家族連れやカップル、友人グループがほとんどで、一人で来た私は余計につらくなった。

 観光の目玉は、洞窟や田んぼに囲まれた渓谷を小舟で進むチャンアンやタムコックのクルージングである。小舟は二人からしか出せないようで、その場に居合わせた、イタリアからの旅行者と一緒に乗ることになった。一緒に乗る人がいてくれてよかったわ、と彼女は言い、自己紹介をし、握手を交わした。
 小舟に揺られながら、たまにスマホで写真を撮る。彼女のスマホの画面に、四歳ぐらいの金髪の男の子が映っていたのが見えて、お子さん? と訊いてみた。甥っ子だと言う。去年スリランカに行ったとき、一人で旅をしていると、会う人会う人に、夫や子どもはいないのか、と聞かれることに辟易して、そのときに、自分の子どもとして見せるために設定したらしい。そして、
「わたしは弁護士をしていて、働きすぎたのか、子どももいないし、結婚もしてないの」
と付け加えた。あなたは? と尋ねられたので、ハノイで教員をしてる旨を伝えると、
「いいわね、教える仕事は素敵だと思うわ」
と言った。
 二時間ほどのクルーズを終え、小舟が岸に着くと、もう一度握手をし、Ciao! と言い合って別れた。たぶん、イタリアの方から自分に宛てられた人生で初めての Ciao だった。
 感傷的に過ぎるかもしれないけれど、でも、こういう会話に救われて、生かされるのだと思う。

 旅行から帰ってきて、二日働いた。ベトナムに台風11号が近づいていて、三日目は休みになった。この台風の名前は「ヤギ(Yagi)」というらしい。木を倒して道を塞いだり、トタン屋根を吹き飛ばしたり、学校を閉鎖させたりと、普段の私よりも業務量が多そうだ。
 そういえば、ニンビンはヤギ料理が有名で、私も何度か食べた。心は塞いでいても、口は、美味しい美味しい、とヤギ肉を咀嚼した。心身二元論はやっぱり正しいのかもしれない。それなら体だけでも生かそうと、私はたくさんヤギを食べた。
 そんなこんなで、「ヤギ」は仕返しに来たのだろう。食料備蓄があまりない家の外で、風はどんどん強くなっている。買い出しに行けば、トタン屋根でも飛んできそうだ。ならばずっと寝ていよう。頭の中では思考が同じ回路を行き来して、溝を深く掘り込んでいる。いっそ意識を手放して、眠りのなかに逃げ込もうとしたけれど、眠りの容量はもうすでにいっぱいであるらしい。苦しい意識を持ったまま、体だけ寝かせている。食べたヤギに謝れば、「ヤギ」は許してくれるだろうか。

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