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無題~その2

3月の父の三回忌には東京から妹も帰郷するはずだったが叶わなかった。
せっかく帰ったところで食料品もトイレットペーパーもカツカツだったし、ガスの供給も次はいつになるかわからないということで、入浴も毎日できなかった。
だけど本当の被災地の生活を思えばお腹を空かせることもなく、寒くないというだけで充分な暮らしだった。

地震が発生したときから多分ひと月くらいして夫が帰ってきた。
その頃から地震そのものより日本中が福島の原発の話しでもちきりになっていた。
福島産の農産物のみならず、遠く離れた私たちのすむ県の物さえ放射能に汚染されていると言われていたけれど、入手できる食べ物は限られていた。
それらを食べて直ぐにどうこうなるものでもないし、長年かかって影響が出たとして、その頃には医学も今よりずっと進んでいるだろうからと、私は楽観的だったし、悲観したところでどうしようもなかった。
だけど夫は「こんなもの子供に食わせるのか!?」と、生の鶏肉を投げつけたり、厚手のガラスのコップを投げつけてきたり、とにかくヒステリックだった。
粉々になった青いガラスの破片を集めながら、じゃあどうしたらいいのかを考えたけれど何ひとついい考えなんて浮かばなかった。

4月には普通に学校が始まった。
5年生になった娘の登校班の集合場所に1年生でもないのにいつもおばあさんと一緒に来る同級生がいた。
そのおばあさんは「雨粒に放射能が含まれているから」と、傘の要らないほどの小雨でも孫に傘をささせていたそうだけれど、娘によるとおばあさんから見えないところまで来ると傘を閉じていたそうだ。

テレビでは連日放射能の影響について放送されていたけれど、何処にも逃げようのない被災者はそっちのけどころか、そこから農産物を出荷していることが悪であるかのような言い方をする人もいた。
中には本土を離れて移住すると言い出す著名人もいて、本当の被災者は不安で不便な生活を強いられているのになんだか腹立たしかった。
被災地に残された人々はどうやって生きていけというのだろうか。
絆ということばが繰り返しテレビから流れてきたけれど、なんだかインチキ臭くてうすら寒いことばに聞こえた。



※震災の当事者でもないのにこの日のことを書くのは申し訳ない気持ちですが、2011年は私にとって大きな節目となった年だったので、心の整理をしたくて書きました。
ご不快な思いをされたらごめんなさい。



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