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無題~その3

帰り道タラの芽を採って帰ったので、たぶん5月になっていたんだと思う。
当時夫と二人でやっていた不動産の仕事のため物件を見に、震災の被害が最も大きかった沿岸地方に行った。
当日の朝突然言われたので慌ててコンビニでおにぎりや飲み物を買って、子供たちも連れて行った。
家族全員で遠出した最後のドライブだった。
高速道路を北上し、沿岸にある久慈市まで行った。
海から離れた町は目に見えた被害は感じられなかったが、海沿いの国道を南下すると左手には青く穏やかな海、右手には信じられないほどの瓦礫の山々が連なっていた。瓦礫の山以外何にも無いのだ。
周りに比較するものが何もないので大きさの感覚がわからないけれど、とにかく見渡す限り瓦礫しかない。
乾いた山からは絶えず黄土色の埃が舞い上がっていた。
特に宮古市田老地区は言葉を失うほど壊滅的な状態だった。
宮古市内の建物が残っている場所でも壁に赤や黒のスプレーで大きなバツ印がかかれ、取り壊しの意思を表していた。
南相馬から避難していた友だちは宮古に実家があり、そのことも気がかりだったけれど、彼女の実家は高台にあり、難を逃れていた。
宮古には子供の頃親戚が住んでいて、夏休みに藤の川という地元の人しか行かない海水浴場に連れていってもらった。
その周りも酷い被害を受けていたけれど、近くに持っていた物件は幸い被害を免れていた。

帰り道、夫がタラの芽を採ると言い出し、疲れているのに夕飯に天ぷらを揚げなければいけないのかと憂鬱になった。

それから3か月ほどして、私は2人の子供を連れて家を出た。
あれほどの地震があっても、夫がいないことに対してこれっぽっちも心細さを感じなかったことは離婚することを決意できた理由のひとつだった。
あの頃、絆だとか寄り添い合うだとかいう言葉が溢れかえっていたけれど、福島への世間の冷たさを思うと、どうにも白々しく感じていたし、自分からはいちばん遠くにある言葉だと感じた。
2011年の世相を表す漢字にも「絆」が選ばれ、私はそれを冷ややかに見ていた。

あれから10年経った。
整地だけされて戻る人のいない街をみると復興とは名ばかりに感じられ、胸が痛む。
追い討ちをかけるように、また世の中は生き方を考え直さなければいけない事態になっている。
私自身は離婚して幸せに暮らせるようになったけれど、この平穏な暮らしでさえ当たり前ではないから、日常をできるだけ大切に生きていきたいとあらためて思う。



※震災の当事者でもないのにこの日のことを書くのは申し訳ない気持ちですが、2011年は私にとって大きな節目となった年だったので、心の整理をしたくて書きました。
ご不快な思いをされたらごめんなさい。


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