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無題~その1

「大変だったでしょ?」
「怖かったよね?大丈夫だった?」
そう声をかけてもらう度、きっと東京や千葉のほうが酷かったんじゃないかと思い、誰に対してなのかよくわからないけれどなんとなく申し訳ない気持ちになった。
もちろん私の住む街でも被害を受けた建物はたくさんあったし、数日間ライフラインが止まったり、暫く物資がなくて不便ではあっけれど、我が家の被害といえば当時住んでいた家の二階にあった熱帯魚の水槽の水が溢れ、後日数匹の小さな魚が壁と水槽を据えた棚の間から煮干しみたいになって発見されたことぐらいだった。

あの日の数日前から元夫は中国だか何処だったかに出張か旅行に行っていた。
憎悪以外の感情を持たなくなっていたから、一体彼が何処に何をしに行っていたのか興味もなく、いつ旅先から帰ってくるのかも知らなかった。
その間実家からうちに母を連れてきて一緒に過ごせばいいんじゃないかという彼の提案で、地震の日も母と一緒にいることができ、余計な心配をせずに済んだことだけはありがたかった。

地震発生から少しの間はまだテレビが映っていて大津波警報という聞いたことの無い警報が発令されていた。
保育園にいた息子を迎えに行くと、子供たちはもういくらか落ち着いていたけれど、あとから聞いた話では、地震の影響で迎えにこられない親もいて先生方は大変な思いをされたようだった。
息子をピックアップしたその足で実家に反射式ストーブを取りに行ったけれど、信号は全て止まっていて国道4号線は警官が手信号をしていたがなかなか直進車を通してくれず、前の車の女の人が窓から身を乗り出して警官に何か大声で言って私たちの車もやっと走り出すことができた。

ライフラインが止まっていたのは一体何日間だったんだろう。
地震のせいで混乱していたのか、夫との関係が悪化していたせいで精神的に参っていて混乱していたのか、その両方かもしれないけれど当時の記憶はかなり曖昧で3日くらいの気もするし、ひと月くらいにも感じられた。
だけどその間電話が通じなくても、娘の春休み中の登校日がなくなったことを近所の人から聞いたり、それをほかの子の家に伝えに行ったり、どこの店が営業しているとか、一度融けかけた冷凍食品をタダで配っているところがあるとか、意外と口コミで必要な情報が得られ、一番頼りになるのはアナログなものかも知れないと思った。
営業しているお店に行く途中、止まったままの信号機のせいで渋滞に巻き込まれていた車中から、横断歩道を渡れずいつまでも待っているおばあさんが見えた。
20代前半くらいの男性が手を挙げて4車線分の車を止めおばあさんに付き添い横断歩道を渡っていった。
彼も同じ方向に行きたかっただけかもしれないが、なんて親切な人なんだろうとあたたかい気持ちになった。

夜は当然真っ暗で、夕飯のときはいつ使うんだろうと思いながらも捨てそびれていたろうそくの灯りとカセットコンロの青い炎、それ以外の時は反射式ストーブのオレンジ色の明かりで過ごした。
街の灯りもなかったし、車も殆んど走っていなかったから外は静かで星空が美しく、父の亡くなった夜のやけにたくさん銀色の星が見えたことを思い出した。
水道も地震の直後は出ていたのに少したったら止まってしまい、娘が自転車でペットボトルの水を買いに行ってくれた。
その水もいよいよなくなったので、庭の雪を大きめの鍋に入れ、ストーブで融かそうとしていた矢先水道が使えるようになった。

電気が復旧した頃、携帯電話も使えるようになり、夫とその母親からおびただしい数の安否確認のメールが一度に届いた。
地震が発生したときには夫はすでに帰国していて、当時千葉に住んでいた彼の両親のところにいたそうで、新幹線も高速バスも運休だったからたぶんひと月くらいそこに留まっていたのかもしれない。

テレビも視られるようになり、沿岸部に酷い津波が来ていたことを知った。
横浜にいる陸前高田出身の友人に電話をしたらお母さんとお兄さん家族と連絡がとれていないというので、新聞で毎朝避難所の名簿をチェックした。
暫くして彼女の親戚が見つけてくれたと聞きほっとした。
もう一人安否が気がかりな友人がいた。
その年の年賀状に「南相馬に引っ越しました」と書いてあったからだ。
原発事故の様子は連日テレビで流れていたが、放射能の影響がどのくらいなのかは映像を見たところでわからない。
仙台の友人に聞いてみたら、持てる限りの食糧とDSを持って避難したらしいとのことだった。
後に彼女とは近くのスーパーで偶然再会し、本当に生きていたんだと実感して柄にもなくその場で私は泣いてしまった。
あれほどの大きな地震で夫の安否は全く気にならなかったのに長い間会っていない友達の方が心配だったのだ。
自分が冷たい人間なのか、そうでもないのかよくわからなかった。



※震災の当事者でもないのにこの日のことを書くのは申し訳ない気持ちですが、2011年は私にとって大きな節目となった年だったので、心の整理をしたくて書きました。
ご不快な思いをされたらごめんなさい。



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