海上地区1N005Q Y003年

——1N005Q地区、天気晴れ、気圧1012、問題なし、メーデーは継続中。——


機械から天候を告げる音がした。
小さな木造の事務所の中に2人の男女がいる。事務所いっぱいに広がる机の半分には大量の何かが書かれた紙が無造作に積みあがっていた。窓の外の青空。くたびれた壁や柱の茶色、書類の白。せわしなさと怠惰を告げる真夏の下だった。

「だから、紙でこんなに纏めてもしょうがないんだって!紙を無駄にして……、私の話聞いてた!?」
「……紙くらいいいだろ、どうせ世界が滅ぶんだしエコじゃなくても」
「そっちじゃなくて、でしょ!」
女が持つ籠には大量の石板がある。
「はいはい、聞いてませんでした。なんで紙じゃ駄目なんだっけ」
「紙は転写できるからよ。技術が失われてもみんな紙の利便性は知っているから一番最初に復活する技術になると推測されているわ。」
それならなおさら紙でいいじゃん。そんなことをいう気力は夏が奪っていた。

かんかんと照る太陽。古い木造建築物。2人は不自然なほどに汗をかいていない。
「だから、駄目なの。死海文書って知ってる?知ってるよね。」
知らない、と言いたい。
「ヘブライ語聖書の最古の写本。宗教的にも歴史的にも大きな意味を持つそれを人類は解き明かそうと必死だった…でも結局全部は無理だった。なぜか?写本が混じっていたからよ。文字を読めない人が書き写したり、誤字だったりを繰り返して結局手に取った時には意味のない文章になっていたの。紙の文章は可変性が高い。利点でもあるけど、私たちの目的にはそぐわない。変わったら困る。」
「だから石板なの。重いし書き写せないし最悪だけど中身は絶対変わらない。何より耐久性がダンチ。USBなんてほっといても溶けちゃうんだからね?」
まぁ分かった。俺がどんなに紙に連ねていっても爆風は燃やし尽くしてしまうだろう。

相方は上の話をよく聞いていたんだろう。それに含まれる意味もよくかみ砕いて理解したんだろう。俺たちの目的は滅んだあとの世界に技術を残すこと。誰の介入がなくなっても自分たちで生き続けられるようにすること。
本当にそれに意味があるのだろうか?変化を殺して、何もなくなっても前にあった基盤のもとに生き延びる。それは結構。あとの世界は本当に未来といえるのか?変わらないことがそんなにも悪なのだろうか?思わず耳を後ろに絞った。

「じゃあ、なんで紙があるんだよ」
「彫るための下書き!」
相方は俺が書いた紙の裏に、さらに大きな文字を印刷してきて、石の板の上に置いた。そしてそれ通りになぞってノミで石を削っていく。えぐい神業だ。

「あとこんなに情報はいらないわ。必要最低限でいい。」
「ええー。」
「アルデバラン?宇宙のこととか……、生活に使わないでしょ。」
「北極星とか、星の動きとか農業にかかわりそうじゃん」
「そうね。いや、そうだとしても関係ないことまで書いてあるわよね?ビックバンとか」
ボツになった。しかしもし大爆発で地軸に影響でもしたら星の動きが使えるかもわからなくなる。そもそも本当に生きていけるような状態なんて残るだろうか?

相方を見る。ピンクの豹柄のしっぽがうねうね揺らいでいる。あいつも集中なんてできていない。
「しかし、あれだな。めちゃくちゃ速いな。ゴリラの子孫さまでございますか?」
「は?」
俺の額めがけてノミが飛んできた。首を曲げてかわす。ノミは後ろの壁に刺さる。死ぬ……

「ほんとに、無駄口たたいてないで始めなさいよ。時間ないんだから」
「時間……世界滅亡シナリオまでの残り時間は、」
「「2か月。」」
「確率が最も高くなる計算上のタイミングね。本当は次の一瞬かもしれない。永遠に来ないで私たちが夏休みの美術の宿題してるだけで済むかもしれないからね。」
「山の担当がよかったなぁ。もう緑なんて見れんかも。」
「見れなくなるのは海かもよ?」

枯れた海小屋に寄り付いた人は100年といない。だからこそ俺たちはここに派遣され、ひっそりと石板を彫っている。そしてそれを残すのだ。各地に分かれて作られた、どこの石板も見つけてもらえないかもしれない、残らないかもしれない。見る人が残る保証もない。大事なことは、やりたいことは、確率を増やすこと、誰がそうしたかの足跡が残らないように行うこと。

もうすぐこの世界は崩壊する。誰かの陰謀とかそういうわけではない。見立てによれば‘ほんの事故’だ。エネルギーを吸収しすぎた社会は、膨らんだ風船を針でつついたのと同じように爆発する、ってのは上層部の受け売りだけども。ゆっくり膨らんだ世界に生きる人々はこの危機に誰も気が付いてない。俺たちがやってるのは救いじゃない、ってことは身に沁みてわかってる。

「世界、滅亡してほしい?」
「どうした急に」
「考えてそうな顔してたから」
やっぱり集中なんかしてないじゃないか。いつの間に手を止めていて、周囲は日照りの静けさがひしめく。
「俺は……、俺自身が、滅亡した後の世界のほうがチャンスあると思ってる。誰のことを考えてるわけでもない。」
「そっか。まあそうだよね。私も同じ。」

相方は再び手を動かし始める。石と鋼鉄がぶつかり合い、崩壊して、組み変わっていく。空には入道雲が漂っている。


——1N005Q地区、天気曇り、気圧1008、問題なし、メーデーは継続中。——

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