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「仕事ができる人」=「誰かにとって都合が良くて便利な人」って意味?

仕事ができるって表現がそもそもあまり好きではない。

人には得意な仕事と不得意な仕事があるだけで、その人自体に「仕事ができる」「仕事ができない」というレッテルを貼ることは不可能だと思ってる。

俗にいう「仕事ができる人」っていうのは、「誰かにとって」「社会にとって」便利で都合のいい人とも言える。

誰かの役に立つから仕事が生まれるわけなので、便利さや都合のよさは確かに大切。

だけど、必死に「仕事ができる人」として評価されるために「便利で都合のいい人」を目指すのは、不自然な気がする。

大きな目的があって「便利で都合のいい人」を目指すならいいけれど、大きな目的もないのに「便利で都合のいい人」を目指して頑張ってしまったら、どんどん性能のいいだけの機械になってゆく。

自分の価値が「性能のいい機械」でいいのか。

なんか違う。

もちろん人間は仕事だけじゃなくて、趣味や家庭もあるので、会社にとって「性能のいい機械」になったとしても、人間らしさが失われるとは限らない。

それでも、なんかおかしいなと思ってしまう。

目的があれば何事も意味が出てくる。

じゃあ、目的がないうちは動いちゃダメなのか?

そんなことはない。

目的を見つけるのは難しいし、目的なしであくせく動いて、目的がないまま死ぬ人もたくさんいる。

目的はまだ見えなくてもいいけれど、「目的は大事だからそれを探そう」っていう気持ちは大事だと思う。


わたしは誰にとって都合のいい人になりたいんだろうか。

別に都合のいい人になりたくはないんだけどね。

誰かにとって都合がいい人になると、心のどこかが楽になるんだよね。

誰にとっても都合が悪くて不便な人になると、かなり関わりにくい人になる。

自分が楽になるために「周りにとって都合のいい人」「周りにとって便利な人」になるのも、ありなんだよね。


目的がないから、なんとも言えないけど。

人生の早いうちから「目的」や「使命」が見つかってる人は、ちょっとうらやましいかも。

勘違いだとしても、生きる指標があるのは、幸せなことなんだと思う。

本当は「仕事できる」なんて評価されなくても全然いいから、「自分は何をやりたいのか」を知りたい。

一番難しい欲求だ。


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