厭離庵レポート
昨年から企画を温めてきた「厭離庵(小倉山荘跡)ポエトリーリーディング 詩歌と音 時空を超えて」を6月10日(日)終了することができた。
厭離庵は、鎌倉時代の公家、藤原定家の山荘跡と伝えられ、定家が小倉百人一首を編さんした処としても知られている。そう、歌人にとってここは特別な場所なのである。
小倉山しくれの頃の朝な朝な昨日はうすき四方の紅葉葉
定家が秋を詠んだ歌である。
淡い雨がいつしか降りだしていた。溢れるほどの庭園のみどりのなか、紫陽花や淡い白色の花が咲き、春告鳥が幾羽も啼きながら庭園を通り過ぎていく。そして、庭に植えられている楓の木の圧倒的な存在感、樹齢三百年になる。その下を苔が一面に覆う。遠く向こうには竹林が見える。会場となった客殿のすぐ西側の草叢には、ひっそりと定家のお墓が安置されているが、ここからは見えない。ここのどこにいても、定家の視線を感じる。一重で細めのまぶたのすこし見えている瞳に、雨に濡れた緑が映っている。
この特別な場所での、朗読とシンギングボウルやクリスタルボウルの音色は、やがて催眠術的な支配力を持ちはじめる。その音色は一瞬にして耳を塞ぎ、身体中の組織器官、細胞そしてミトコンドリア内のみずを振動させ、遠い宇宙まで、ひかりのような優しさでわたしを拉致する。
クリスタルボウルプレイヤーの大井さんやシンギングボウルプレイヤーの真史さんが、眸のなかで歪んで、ぐにゃぐにゃになってしまって、プールの底で知らないひとの名前を呼んだ。言葉と言葉の結び目が解かれる。誰かにやさしく手首を掴まれたまま、からだが知らずに割れはじめる。そこを唇でつめたく吸われような感覚がやってくる。
庭の楓がいっきに燃え上がるけれど、水のなかの海藻になった私に、炎の熱気は伝わってこない。炎は隣の「時雨亭」まで燃えて移ったようだ。
キー、キッキー、とつぜんの春告鳥の声で、わたしは、みどりの同心円の真ん中にふわりと落とされた。
ながいながい朗読は終わった。となりの人の顔が知らない人になる。きっと、血は立ったまま眠ることができるのだろう。
ことばを声に発することで伝授されてきた。六月の湿りを帯びた声と音の共振、無目的な空間に置かれた「かるた」の札の雑駁さと同じように、また、遠くそしてやさしく死を見据えるために、わたしはここまで来て、その同士を見つめる。
なんて、クリスタルボウルの音色は優しいんだろう。全てを許してしまう、海の底に沈んでしまう、あるいは幻覚を見はじめる。ネンブタール麻酔するときの、睡眠期にはいる手前の、半覚醒がずっと続いているような。身体の力がなくなって、重力が底に張り付いてしまう。
いつのまにか、背後から指すられている手のひらの無温度、それがシンギングボウルの印象だ。無音なのに体の奥の鼓膜が揺れはじめる。きみは、白湯の湯気のまま揺蕩い、三百年の歳月を経てここに落ちてくる。
丸裸の/感染症に/晒されている顕わなことば/がことば以外になろうとして/悲鳴をあげる/ことばがうごく/ときくつがえる(白井健康 ポエトリーリーディングとは、言葉の悲鳴だ。)
厭離庵ポエトリーリーディング(プログラム)
一部:ポエトリーリーディング
楠 誓英 百人一首、自作短歌、詩
歌崎功恵 百人一首、長歌、自作短歌、自作詩
白井健康 百人一首、自作短歌、自作詩
岩尾淳子 百人一首、自作短歌、詩
二部:ゲストによるポエトリーリーディング
とみいえひろこ、小川ゆか、家田千春、大西綾子、ルゥリ、小笠原小夜子、尾崎弘子、門脇篤史、草野浩一、桑原恭祐、郷旬、佐藤元紀、春名美佐紀、三潴忠典、山名聡美、岸原さや
クリスタルボウル 大井映理子
シンギングボウル 森本真史
(参考)
厭離庵は、京都市右京区にある臨済宗天龍寺派の寺院(尼寺)です。山号は如意山(にょいさん)と称し、本尊は如意輪観音(にょいりんかんのん)です。
この厭離庵の地には、鎌倉時代の歌人であった藤原定家の小倉山荘があったとされます。この山荘は鎌倉幕府の豪族で後に出家した宇都宮頼綱が建てたとされています。定家は、藤原北家御子左流(みこひだりりゅう)で歌人藤原俊成の次男として生まれました。冠位は正二位権中納言で、京極中納言と呼ばれました。承久の乱(1215年)の際に後鳥羽上皇によって幽閉された時、事前に乱の情報を幕府に密告して幕府の勝利に貢献し、その後太政大臣にまで上りつめた西園寺公経(きんつね)は、定家の義弟にあたります。平安末期から鎌倉初期にかけて、御子左家の歌道における支配的地位を確立し、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』(勅撰集)の編集に携わりました。また、鎌倉御家人でもあり歌人でもあった宇都宮頼綱に依頼されて撰じたのが『小倉百人一首』でした。厭離庵にある「時雨亭」が、定家が『小倉百人一首』を撰じた場所であるとされます(この時雨亭または時雨亭跡は、二尊院や常寂光寺にもあるとされます)。
厭離庵はその後荒廃していましたが、江戸中期に冷泉家(れいぜいけ:御子左家から分かれた三家のうちの一つ)がこれを復興し、霊元天皇(在位1663~87)から「厭離庵」の号を授かりました。これが厭離庵の始まりとされます。開山は霊源慧桃(れいげんえとう)禅師です。この時より厭離庵は、臨済宗天龍寺派となりました。ところが、明治維新直後にまたまた荒廃してしまいます。そして明治43年、貴族院議員で白木屋社長の大村彦太郎氏が仏堂と庫裏(くり)を建立し、山岡鉄舟(勝海舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれた政治家)の娘素心尼が住職となり尼寺として復興しました。現在、庭の樹の樹齢は約三百年、江戸の復興の際に植樹され、定家のお墓もこの時に造られました。
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