2018ふじのくに芸術祭文学部門短歌の部審査評
審査評
白井健康
応募数が昨年度の六十五名から、今年度は八十五名と増加に転じた。応募数が年々減少傾向にあるなか喜ばしいことである。応募者の年齢層は四十代から九十代まで、その中心は七十代(五五.三%)であり昨年同様の傾向にあった。一方、近年の若い人たちの短歌ブームは目覚ましい。ツイッターやブログで自身の歌を発表したり、大学短歌会などが新たに結成され活発に活動を行っている。「うたの日」は、毎日行われているインターネットの歌会サイトで、短歌を始めて間もない人から、結社に所属している人まで幅広く参加している。また、新聞や雑誌への投稿欄は従来からあったが、投稿短歌で力をつけた若い歌人が、歌集を出版するという流れができつつある。ダヴィンチの穂村弘選の「短歌ください」などはメジャーであろう。また、地方の出版社では、書誌侃侃房などが歌集出版を容易にしているという背景もある。
今後は芸術祭への作品応募を、インターネットでも可能にするなど、若い人たちにも応募しやすい環境を整える必要がある。
今回の応募作品もさまざまな歌が寄せられたが、その中心は作者の日常を詠った日常詠が多かった。老い、家族・友人、仕事(職場、農作業)、また祭りや旅行などである。また、自然詠も安定的に詠われている。一方、社会詠が以外に少なかった。毎日の生活の中で社会に対する認識、例えば災害や事件など、今でなければ詠えない事象を詠むことも短歌の使命であると考える。
今年度の審査は県歌人協会常任委員の榛葉貞代と白井健康の二名で担当した。
芸術祭賞「夏の終わりは」
日常の私とすこし距離を置いて、私と並走するもう一つの時間のなかに心を置きながら、俯瞰するように私を見つめてみる。そうすると思いがけない、もう一人の私を発見することがある。短歌とはそういう、もう一人の自分を発見し認めることのできる詩型なのではないだろうか。
一首目と三首目の歌を呼応するように読んだ。一首目、金星と思って見つめていたら火星であった。その軌道は逸れてもいいと詠う。三首目は、友達の誘いを断ってでも一人でコーヒーを飲みたい甘やかな時間がある。友達の誘いを断ることがすでに軌道から逸れている。普段は友達と上手く付き合っているのだろう、でも少し離脱したいと思うことは誰にでもある。金星だと思っていたら火星であって、軌道は逸れる。しかし、再び軌道は修正されてゆく。二首目、バスの乗り方を知らぬ間に覚えていた。意識しなくても軌道にのれば私を運んでいってくれる、それは望むと望まざるとに拘わらずなのだけれど。日常とはそういう時間の繰り返しだ。四首目、「ニルヴァーナ」という音のポエジーをまずは楽しみたい。正体は不明だが、どこかインドの経典の名前のようであり、「めく」で、さらに傾斜する自分がいる。カタツムリから白い渦巻きを引き出し、さらにニルヴァーナめく。詩の言葉の展開の自由さを読者は楽しむことになる。文脈を追うのではなく、言葉のイメージを繋げて読む。そういう歌があってもいい。いや、あるべきなのだ。ちなみに「ニルヴァーナ」とは「涅槃」のことだろうか。意味がわからなくても歌として成立している。五首目、クレーンを夏の終わりの細胞とした。クレーンは都市のなかでインフラ整備のために設置されている。いわゆる増殖してゆく町のイメージであり、それは分裂増殖を繰り返す細胞のイメージである。逆光や夏の終わりに、ひとときの静謐な時間がある。そして、白い渦巻きや細胞に、少し軌道を外れた作中主体を重ねて読むのである。五首全体が暗喩のようにも読める。今まで、修辞(レトリック)を巧みに使った歌がほとんど見られなかったが、この連作における作中主体独自の修辞に惹かれた。
奨励賞「漂ふ」
全体が映画のシーンのように、映像として鑑賞できる。二人で船に乗って小旅行に行くのだろう。小旅行には小雨が似合う。二首目の地図の上に落ちた雨粒で海原の色が濃くなった。観察による発見があり、ことばによる写生がある。四首目の「またきみの現る」は羽衣であり富士山であり、そしてきみとも読める。いろんなきみが重なって想起される。五首目、秋のほとりに立つ二人、此岸にいるのであるが彼岸に立っているようにも感じられて、その存在が薄くなる。みづくらげからイメージされるのだろう。ストーリーの展開をうまくまとめている。しかし、地図やみづくらげにすこし既視感を感じる。また五首全体がコンパクトにまとまり過ぎて、読後の想像力にやや欠けるように感じた。二首目の「地図の上に」は「地図の上の」とした方がすんなりと読める。
奨励賞「春と呼ぶべし」
比丘尼谷や佐保山などの地名にリアリティーがあり、これらの固有名詞を詩の言葉として昇華させている。「体温たよりなき夕まぐれ」「をとめの面に沁みいづる水の翳り」「夢よりもあをき南冥」などのレトリックに詠い慣れたうまさを感じる。また、祖母の襦袢から夏樹への展開、月の夜のあけびむらさきなど、詩情豊かな展開が巧みである。あえて欠点を言わせていただくと、言葉が饒舌すぎること、またテーマが絞れていないのではないだろうか。「春と呼ぶべし」なのに「夏樹」や「秋」が詠われている。短歌は省略の詩型であり、一首一首はシンプルが良い。
奨励賞「介護職員初任者研修」
この歌の良さは、文体の若さであろう。介護現場の職場詠であるが、具体的な仕事内容よりも、薄情で無職の僕、そしてすでに介護職に就ているやさしい君との関係性を詠っていて、読者に爽やかな共感を誘う。薄情だと宣言するわりには聞き上手な僕、そしてやさしくしっかり者のようで意外に脆い君、五首の連作のなかに緩やかなストーリーの展開があり、僕や君という容姿やその心情をもつ人間像がほんのりと浮かび上がってくる。三首目の「ぬばたまのポニーテール」という枕詞の斬新な使い方が歌の中で活かされている。介護現場の風景や具体的な仕事内容を入れて詠えば更によかったのではないだろうか。
奨励賞「校門前」
登下校する小学生をよく観察して、それを自分のなかで消化して詠っていて好感が持てた。三首目の「這いつくばった ここでやる気だ」などは読んでいて思わず微笑んでしまう。彼らの一挙手一動が微笑ましく、説明などいらないだろう。そして、彼らに向けられている作中主体のやさしさを歌のなかに感じることができる。四首目は「届けろの声」五首目は「わが家に十円を置いていく子や置いていかぬ子」とすると韻律が良くなる。
準奨励賞「猫の手」
妻に先立たれ、独居生活をする男性像が歌から浮かび上がってくる。ひとりで気丈に料理などをしているが、くもりがちな鏡に映るわれ、小川に映る影、そして夢に現れる妻などに、作中主体の心情が揺曳され、読者にささやかな痛みを誘う。三首目の「猫の手」は猫の手のように不器用なわれの手、と読んだ。猫の手と言い切ることで文体は強くなる。
準奨励賞「山静県境小字雑感」
山静とは山梨県と静岡県のことと読んだ。県境の山道を写生する作中主体の観察眼が冴える。平成の終わりの夏に鳴く油ぜみ、羽化できない蝶のさなぎ、中州に伏すぎしぎし、蓼や野菊、水利権標識など細かいところに目が向けられている。特に二首目、三首目は写生の確かさが活きている美しい歌である。五首目で「雪虫」が詠われていて、季節的にすこしちぐはぐな感じがした。
準奨励賞「青柿」
青柿の落ちるまでの静寂な時間、そして八月に生まれることばを詠んでいる。一首目の吐く息は作中主体の息であり、母の息であり、落果する柿の息であろう。二首目の「壁うち日向へはねてしずまる」が幽玄である。八月は作中主体にとって転生を強く意識する月である。五首目の「葉擦れさやけし」に決意のようなものを感じた。三首目の「奈落」という言葉はすこし重すぎないだろうか。
準奨励賞「輪切りの戯れ事」
二首目の「落ちこぼれたる子らを切るごと」三首目の「空気のつまりし緑の風船」四首目の「赤い血の被爆者の絵の地獄」など喩の使い方が独特で印象的である。タイトルの「戯れ事」は雑駁な言い方で一考を要する。
入選
「母の紬」二首目、「仲よく暮らせと」の「と」を削除して、二句切れとしたい。四首目、「鍵つきの介護寝巻き」が存在することを知らなかった。リアリティーがあり「我」だけでなく読者まで苛まれているようだ。
「四月生れ」二首目、「世界史」でなく「世界史B」の言葉の選択が適切だった。シーザーから帝王切開への展開も意外性がある。三首目の「重湯と」「ゆらゆらと」の「と」の重複が気になった。
「玉鉾神社大祭」一般的に祭りの歌は説明的になりやすいのだが、ぎりぎりのところを丁寧に詠っている。二首目の「ひらりはらり」三首目の「くるり」四首目の「シャララ」のオノマトペは平凡であり、作者独自のオノマトペを期待したい。
「ざわめき」三首目の穂波から弥生の民の系譜の連想に、瑞穂の国の民の一人として共感をする。そのときから、時代を超えて風は吹き渡っている。一首から三首の歌群と四首、五首の歌との関連が希薄で、タイトルの「ざわめき」との乖離がある。
「落下の時は始まる」三首目、今年は終戦の年(昭和二十年)と同じ日付と曜日である。作者はそのことを天変地異の多かったことに重ねている。直接的ではないが、平穏に日々が過ぎてゆくことへの祈りのような心情がある。
「壊れゆく音」テーマが大き過ぎて、事象への的が絞れていない感がある。四首目のような、身近で具体的がな事象を丁寧に観察し、自分の言葉で掬い取ることから、テーマが絞れてくるのではないだろうか。
「稲刈る明日」三首目、一面のコスモス畑に、風の吹き抜けてゆく風の道が幾筋もある。秋の日の美しい光景である。農耕そして新しい命の誕生への作者の謙虚な心情が詠われている。やや類型的な詠いかたが気になる。
「守る」林業を生業とするささやかな自負が詠われている。しかし、どうしても自身の自負の思いの強さが歌にでてしまっている。なるべく冷静に自分から距離を置いて詠うことを心がけてください。また、短歌の主語は原則はわたし(われ、わが)です。一首目の「われ」、四首目、五首目の「わが」などは明記しなくても省略できるのではないでしょうか。工夫してみてください。
「去りゆく夏」農業を生業とする作中主体の過ぎゆく夏が丁寧に詠われている。静謐だけれど力強く心に響いてくるようだ。情景が類型であるのが気になった。
「お太鼓祭り」正月元旦から三日未明にかけて行われる由比の「お太鼓祭り」を詠った連作である。祭りは、「渡り初め」「入れ太鼓」「送り太鼓」と続くのである。お祭りをテーマにした短歌は、祭り以上にその臨場感を歌に託すことは難しく、どうしても説明的になりがちです。
「音」日常の中で聴こえてくる、色々な音をテーマに取り組んだ連作である。一首目の「爆音」は何の音だろうか。四首目、「雨音聞こゆ」「哀しみ増しつ」などは少し説明的。一首一首が独立していて「音」だけで五首を関連づけるのは少し無理がある。
「盂蘭盆」祭りや盆の歌は多かったが、この歌は比較的丁寧に、かつ自分に引きつけて詠われている。三首目の「詫ぶなり」四首目の「真の供養ならむや」五首目の「長すぎて欠伸や乾咳聞こゆ」など作者の目線が感じられるが、「詫ぶなり」や「真の供養」は説明的ではないだろうか。
その他、入賞はしなかったが印象に残った歌を記しておく。
国揚げてワールドサッカーに湧く中を垂る膵液のガーゼを替えぬ
川の面を薄らに照らし街の灯は魚族の眠りを隠しておりぬ
人はみな素数にあらば私は私として籠りたくなり
喉元の本音をぐいと飲み下し表情搔き消し兎となりぬ
昨年の審査評で、五首の連作を詠う上での注意点を示しました。今年度は不用意な「字空け」や改行は少なかった。しかし、依然として以下の点が散見されたので今後も注意をしてください。
・文法上の明らかな間違いがないように。短歌を詠う上での基本です。例えば、「濡れそぶ」は「濡れそぼつ」です。
・新かなと旧かなについて、旧かなと文語を混同しているのではと思われる作品や、旧かなの場合の表記間違いが散見されました。新かなは口語や文語、もしくはその両方のミックスで詠うことができます。しかし、旧かなは旧かなのみで詠うことが作歌上のルールです。
・不用意なルビが目立ちました。ルビは最小限に、しかし必要な漢字にはルビを振ってください。一つの漢字でいろいろな読み方がある場合、特定の読みかたをさせる場合にルビを振ってください。
・昨年に引き続き、読者にわかってもらおうとして、説明的な歌が多く見受けられました。短歌は省略の詩形であり、韻文であることを再度認識してください。
ここで、永田和宏氏の言葉を記しておきますので参考にしてください。
歌会用語に(説明的)というのがある。(中略)一首のなかに飛躍がないと歌はつまらない。その飛躍が、跳びすぎていると読者の理解が及ばず、即きすぎていると面白くない。その跳びかたのいわば匙加減が、歌のむずかしさであり、また面白さでもある。失敗作を見ていると、跳びすぎて読者の共感が得られないというものよりは、わかりすぎてつまらないという作品の方が圧倒的に多いという気がする。説明的語句の挿入が跳躍の溝を埋めて落差を小さくしているのである。説明しないと、自分のこの心の動きは読者にわかってもらえないのではないかという危懼が、その大きな要因であることはいうまでもない。歌は盛り込む形式である以上に、削り取る形式である。(中略)削り取ることは言うほどに簡単ではない。(「私の前衛短歌」永田和宏著、砂子屋書房)
・五首の歌のなかで「言葉」の重複が見受けられました。例えば「初夏」という言葉を五回使ったり、「さくら」という言葉を五回使ったりです。意図的にそのように詠む方法もありますが、殆ど失敗すると思ってください。
・喜怒哀楽や作者の意見、結論を歌の中になるべくなら表記しない。「悲しい」「うれしい」は読者が感じとるものです。
・依然として修辞(レトリック)を用いた歌が少ないように感じました。短歌の面白さ、醍醐味のひとつは修辞にあると言っても過言ではありません。直喩、暗喩などの喩はもちろん、枕詞やオノマトペ、破調、句跨りなどです。しかし、ありきたりの修辞はかえってマイナスです。作者独自の修辞を期待します。
短歌という短い詩型は、作者が全てを言い尽くすことはできません。読者がいて、その読者が作者の言い尽くせなかったことを補って読んでくれる。いわば作者と読者は車の両輪のようなものなのです。短歌は素晴らしい読者に出会って、その作品は作者の想像以上の展開や豊かな内容を獲得するのです。
最後に私の拙い歌を紹介して、審査評を終えることとします。
ルンバールって微笑み深く沈み込み(ン)が上向いて唇を/呼ぶ 白井健康
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