「すべては引用から始まる」

いつわりの襞、煌びやかに、うみの思い出が、物語の、毒を盛る。
定義できる、と右手から左手へゆける、うみの接触、失敗だ。
鏡のせいだ。甘やかなきみの死が、その度ごとにきみよりおくれる。
鏡、それはエクリチュールのなかに組み込まれた手続きでもあって、
ページのうえに、「すべては引用から始まる」、あの切先のせいだ。
きみの右手からぼくの左手がうみへ行ける、といつもきみから遅れる。
「ぼくはこのうみ(この本)に溺れる」引用の設計図を横断しながら
「うみ、の断片が減ることはない」、と動詞の語尾変化が脈打つ。

ページのうえの、、、、、「すべては引用から始まる」*(『散種』p509)あの切先のせいだ。きみの右手からぼくの左手へ、うみへ行ける、現実と同じくらいに触れたときの、いつもきみから遅れる。織りなすことの偽りが、まわりの偽りへと織り込まれてゆく。それは光と影の、そのあわいに見え隠れする兆しへと影響する。偽りを生きようとすることばの静けさが、なにも意味をもたない偽りの死へ、相称な鏡の位置へと含まれる。「うみ」という記号にふくまれる、雨が燃えていた。規則正しく風景の断片ごとに崩されるように、うみの肉が打ち砕かれる。肉の破壊、森から、足もとの小石を、乳房を避けて流れる川へ、てのひらを従わせ、震える二重線を描きながら、骨よりも白く摩擦を与えては、きみのうえに要約するテクストを計算する。
ぼくの眼が、土地のひろがりを分泌するが、不完全なエスキスだ。異議申立ての、しばらくの時間を要する。まだ選ばれないことばが、風景を整えるように、こうして一夜明けてのち、うみの意識をとりもどす。(『ドラマ』p90〜92、p103、『散種』p509〜512 参照)


スクリーンとは、それがなければエクリチュールがありえないようなものだが、それはまたエクリチュールのなかに描き込まれた手続きでもある。エクリチュールの手続きは書かれたもののうちに映されているのだ。(『散種』p511)

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