アンフラマンスについて考えたこと。

アンフラマンスについて考えたこと。

僕たち人間は、ひとりひとりが違う、異なる存在だと教えられてきた。それぞれの個性を伸ばすことが理想の教育だとも言われ続けてきたし、今もそれは変わらない。

 デュシャンのアンフラマンスという概念、46項目のアンフラマンスのメモを読み返しているが、その十八番目に「大量生産による[同じ鋳型から出た]二つの物体の差(寸法上の)は、最大値(?)の正確さが得られたとき、極薄である。」とのメモがある。これは明らかに手仕事の、たった一点ものの作品のもっているアウラに対するアイロニーである。彼のレディメイドを展示した作品群、それは大量生産された同一のものではあるが、そのひとつひとつがちょっとづつ異なる、その微妙な差がアンフラマンスだと彼は言っているのだ。彼はおそらく、アンフラマンスということを言いたいがために、レディメイドの作品群を提示したのだと思う。
 従来の古典的論理は同一律や排中律という概念で成り立っていて、我々ひとりひとりはたった一点ものの作品と同じ、まさに特別な存在そのものである。しかし、おそらく、デュシャンはわれわれ個人、われわれひとりひとりひとりはレディメイドの既製品であって、そういう量産社会がアイデンティティの崩壊をもたらした。あなたとわたしの差異は(?)というようなね。しかし、彼はこういう量産社会におけるアイデンティティの崩壊の中に、やっぱり古典的なアウラに対する理念は生きていて、一人一人は違うんだということをアンフラマンスの概念で言いたかったのだ。
たとえば、ジャスパー・ジョーンズのアメリカの旗とかウォーホールのマリリン。モンローの絵もそうだけど、そこにデュシャンの精神は生きている。
 古典芸術とか古典的論理はもともと異なるものの中に自らの繁栄を見出してきたし、そこに類似とか相似性を見出してきた、しかし、レディメイドの量産社会の繁栄によって、同じもののなか、そっくりに見えている物の中に差異を見出す、そういう類似性を見出すというロジックに転換してきたのだ。

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