「水中翼船炎上中」を読む

誰もが過ごした、去年の長期休暇、あるいは夏休みを、くちゃくちゃってかき混ぜて、頭から透明なレジ袋を被ったまま下から覗いた日本に暮らす。液体でもない固体でもない、丁度中間のゲル状の心情から滲み出てくる言葉、そんな印象を持った。
液体は流れてしまって形を持たない、固体は形を持つけれども動くことは難しい。言葉は震えながら動こうとする。おそらく作中主体の心情がゲル状の感性を抱えているのだろう。
難しい言葉はそこには使われていない、しかしどの言葉も居心地が悪そうなのである。ちょっと目を離すとどこかに逃げていってしまいそうになる。

五組ではバナナがおやつに入らないことになったぞわんわんわんわ(p、32)
水筒の蓋の磁石がくるくると回ってみんな菜の花になる(p、33)
席替えが理解できずに泣きながらおんなじ席に座っています(p、34)
湖と沼のちがいはなんですか答えられない学級委員(p、34)

五組が、ちょっと目を離すと四組か三組になりそうだ。バナナのゆるいカーブから楽しいことが滑り落ちてゆく、わんわんわんわ、って楽しそうに逃げて行く。てんでんバラバラに散らばって行く言葉たち。「わんわんわんわ」の終わりかたがやっと定型詩という詩型を保っている。

ここで、水筒、みんな、菜の花 、から「遠足」をイメージする。当時の水筒の蓋には磁石がついていた。あれって、何故ついていたのかなぁ?くるくる回って、時間が経ったんだよね。水筒、磁石、菜の花、みんな、懐かしい言葉を容器の中に入れて、がしゃがしゃって揺すると、言葉は容易に分断され、それぞれの位置に自由におちつく。もともと言葉に決められた場所など存在しない。

沼も湖もおんなじじゃん、調べたら「沼と湖の違いは、深さにある。沼は一番深いところでも5m以下、湖は一番深いところが5m以上ある」となっている。それって。大人が勝手に決めたもので、学級委員の鈴木くんにとって、5mはどうでもいいこと。5mの規定がゆるゆるゲル状に崩壊する。そんなことを聞いてくる先生みたいな大人になりたくなかったぞ。

席替えって、そもそも何故するのか?小学校の時、その理由を聞いたことがない、その意図は先生が説明してくれたのかもしれないが、ほとんど印象にない。学期の始めの「席替え」はもう決められた一大イベントだったのだ。だから、席替えを理解できずに泣きながら、そのままの席に座る作者。ここに作者の社会に馴染めないゆるい心情がある。

おまえのなまえはなんだったけ?繰り返し繰り返し訊く子のペンネーム(p、144)
パクパクと口は動いているものを おとうさん 、おかあさん、ぼ(p、147)
飛ばされた帽子を追って屋上を走れば母の声父の影(p、148)

夢の中のような、宇宙遊泳でもしているような世界の中で言葉をようやっと繋ぎ止めている。

忘れたのお母さん、僕の名前忘れたの?ペンネームを訊く。本名ではなく、ペンネーム。子供はペンネームがある。
パクパクと口を動かしても、声にならずに伝わらない言葉、そして「ぼく」は「ぼ」で途切れてしまった。
飛ばされた帽子は止まらず、やがて父の影が現れる。帽子=作中主体がやがて母の声を経由して父の影へとたどり着く。それは父という実体のあるものではなく、父の影なのである。大切だと追いかけたものは大切な人の影へと向かう。これらの歌には確かなもの、止まろうとするものはない、思い出さない、声にならない、影へと向かう、全て自身の幻影なのである。この世で生きていると思えるものは全て幻影なのかもしれないと思わせる歌群であった。
言葉が読者の中で自由に動くとき、一瞬だけ本当の顔を見せて、すぐに変わってしまう。

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