詩は表現ではない
「詩は信仰ではない。論理ではない。詩は行為である。行為は行為を拒絶する。夢の影が詩の影に似たのはこの瞬間であった。」(『詩と存在』瀧口修造)
「詩は果たして表現であるのか。詩は作者の表現したいものを表現する手段なのか。詩人はまず表現したいもの(ヴィジョン・感情・思想・体験・その他)を持ち、次にそれを読者と共有するために作品化しようとして、表現に努めるものなのか。この素朴な、だからこそ根本的だと思われる問いに、否と答えるところから、ぼくは詩を書いてきたし、これからも書くだろう」、「詩人がいて、その詩人が何かその人独自の伝えたいことを持ち、それが実現されて作品が産まれ、読者はその作品を読んで、作者の伝えようとするものを正確にキャッチし、そしてそれを十全に共感する、という図式を、詩に関してはぼくは信ずることができない。」(『詩の構造についての覚え書』入沢康夫)
などを読むにつれ、詩歌を続けてきたぼくは、これらのテクストに共感するところが大きい。作者の心情を読者に伝えるのなら、韻文でなくて散文でよい。自分の思いを伝えようとするために詩歌を選択することは間違っているのかもしれない。
詩歌を読むとき、言語からたちあがるイメージの出現に出会う、しかしぼくたちは一方で記号としての言語表現という宿命からのがれられない、いわゆる意味とイメージの相剋に出会うことになる。そうした言葉の二重性が際立ってくることから両者の相違とか距離の乖離が生じてくるのだ。
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