「陸離たる空」を読む

水甕同人の木ノ下葉子さんが第一歌集「陸離たる空」を出版した。若い頃から精神的な病を抱えながらも、事象を捉える感性は鋼鉄の刃物のように鋭く、しかしある時は紙のように砂のように脆く崩壊してしまう。
一気に読んだが、理解できない歌もあった。彼女だけの想念があるのだろう。感性を覆う表皮が剥がれて剥き出しのまま外界に晒されていて、詠うことによって自身の感性に薄い膜をつくっている、がしかし、その膜は部分部分が容易く剥がれてしまって、毎日の生きづらさに喘いでいるという印象をうけた。ちょっと、「中澤系」をも連想した。

歌集のなかの印象に残った歌について少し書いてみる

「風はいつも」から

もう二度と逢へない人の貌をして或る日するりと降りてくる蜘蛛(9)
空の底ぞつとするほど露出して逆上がりさへ無理せずできる(9)

「もう二度と逢へない人の貌」って、どんな貌だろう。私はこの歌を読んで笑っている貌だという確信をもった。彼女の貌は表情が豊かだとはお世辞にも言えない、それは世間への表向きの貌だから、世間の生きづらさみたいなものが彼女の太い部分なのかもしれない。彼女が笑うとき、ぼくはもう彼女に会えないような気がする。

空だけでなく、この世は露出しすぎている。そして、彼女の感性も剥き出しの露出したたまの神経細胞のようだ。何かを見つめたり、何かに触れたりした瞬間にひりっと電気が中枢神経に伝達されるのだろう。それに耐えられなくて、逆上がりをしてこの世界を逆転させようとするのかもしれない。でも逆転したって、露出度が変わるわけではないのだけれど。

「昼の月」から

瞬きに傷ついてゐる空のよう たひらかな君見上げたくなる(13)
泣かぬよう仰ぎし空の一部分ふやけてをりぬああ、昼の月(14)
特急のパンタグラフの削りゆく西つ空より血汐したたる(15)

空を詠う連作である。「瞬きに傷ついてゐる空」は君であり、自身である。無防備なセンサーは短命である。
わたしの頭上にいつも位置する空は、昼の月にふやけ、パンタグラフで削られて血が吹き出るような空である。まるで自分の皮膚のように。自分を傷つけなければ想起されない空である。いつもみている空は作者だけの空になる。

「母の黒髪」から

みちのくより嫁ぎて来たる二十九の母か 道辺の蜜柑を拾ふ(23)
二十九の母の黒髪浜風にまた慣れざれば吹かれやすきよ(23)

みちのくから嫁いできた母を詠う。この一連に母への思いが溢れている。
「蜜柑」というアイテムがここでは効果的であり、やんわりと静岡という土地や季節を連想させる。清水に吹く浜風にまだ馴染めないでいる若い母の日々である。「髪は吹かれやすい」が新しい土地で暮らし始めた無防備な心情をそのまま捉えている。

「梅雨の坂道」から

靴先で流れ裂きつつ遡上せむ梅雨の坂道水脈引きながら(25)
星見えぬ空を人型に切り抜きて明日の己の影の用意す(26)

日常の事象の捉え方にうまさを感じる。
雨降りの坂道での水流や、星のない夜空からの展開を非日常の風景にかえてしまう感性があり、「靴先で流れ裂く」や「星見えぬ空を人型に切り抜く」など詩の言葉がある。

「うたはぬうたよ」から

抜く時に痛むと怯え留め置く棘のやうなり うたはぬうたよ(29)
うたわない歌は、そのまま抜かないでおく棘のようだ。歌ってしまえばその時に痛みがある、う〜ん、うまいなぁ。詠うことは作者にとって痛みを伴うとこであり、詠うことでその痛みを実感しているのだろう。しかし耐えきれない痛みがあると分かっている時には詠わないでおく。ここに作者の哲学がある。通常は、喪失の痛みから詩が生まれる。しかし引き抜かなくても痛みは慢性的に残る、痛みは決して消えないのである。

「汽水となりて」から

生まれたら一度死ぬだけ真つすぐに歩いて渉る遠浅の海(34)

生を遠浅の海を渉ると詠った歌人はいただろうか、作者の日々は決して遠浅の海のような穏やかな日々ではないはずだ。穏やかな時がそのまま続くようにという願いを込めて詠われた歌であろう。

「スイッチ」から
しあはせとふしあはせとを押し分くる痒みのようなスイッチがあり(36)
幸せと不幸せの二つを決めるスイッチは、作者にとって痒みのようなものである。事前に痒みがあって、その後に幸せや不幸せが訪れる、ならば痒みを放置してしまったらと考えるのだが、通常は痒みを我慢できなくて掻いてしまう。痒みは本能的なものであって、掻かずにはにはいられない、その動物の反射のような行動が悲しい。幸せや不幸せは自身の本能のスイッチによって決定されてしまう。「痒み」というメタファーを使ったことが功を奏している。

父の死を詠った「電池」の連作のなかの最期の歌にこころ打たれた。

水面に浮くもの何れも静もりてその影のみが揺らぎて止まず(50) 

「写生」のうまさが光る。水面の情景をしっかりとした眼差しで写生している。そう、世界は静かなのだ、ただ吹く風によってその影が揺らいでいる。父を失い、全てが何もなかったかのようにいずれ元に戻るだろう、しかし水面の影だけがきえない悲しみのようにゆらぎをやめない。静かだが作者の悲しみをずっと映したような秀歌であり共感を呼ぶ。

「藁半紙の海」から

藁半紙の海、父の問い、いつまでも解けないこたへを沈めたままに(54)
潮風に瞑りてをりし目を開けば視界にはかに青み渡りぬ(54)

父は先生だった。テスト用紙を自宅に持ち帰って採点をしていたようだ。「藁半紙の海」に沢山の生徒の答案用紙が連想される。そして父の問題を作者も解いてみたけれど、解けない。それは生きることへの父の問いだったのかもしれない。答案用紙に問題だけが海のように眩しくうねる。そして、わたしはあなた子どもとして正しいのだろうか、目を瞑り、目を開ければ視界は青みがかる。

「少年」から

いつの日か波を生みたし調べとは最期の息にやどりたまふを(57)

二句切れの歌である。「調べ」とはここでは、和歌を吟詠した時の声調,音調のことであり、歌を朗読した時の呼気の波でもある。なめらかな息(波)の調べは最期の息にあると詠う。この世を去る時のその調べを発するために、人は生まれやがて死んでいくのかもしれない。その時の調べとは、生物であるヒトの一番最後の意思を伴った行動(反応)であり、調べの内容は人それぞれである。「たまふを」に死にゆくひとへの畏敬の念が込められる。

「切片」より

我が身より剥がれ落ちたる切片を見つけられぬと俯せる夢(72)
幾粒の雨にさらせば消えるのかひらがなばかりの手の甲のメモ(72)
死ねといふことば初めて口をつき松ぼつくりを拾ひに拾う(73)
看護婦に監視されつつ用をたすあの日の我は月経だつた(73)

入院の日々を詠ったこれらの一聯がこころを打つ。
剥がれ落ちたものを拾っても、元のわたし(病む前のわたし)にはもどれないことは理解しているだろうけれど。
手の甲に書かれいる文字はどのような文字なのか、一つ前の「桃太郎」の連作のなかに「亡き父の夢書き付けし手の甲を洗い流せば父も消えゆく(68)」という歌があり、手の甲に書かれているのは「亡き父の夢」だと想像する。
「死ね」と言ってしまった自身の心を鎮めるための「拾い」だろうか。または、「死ね」を忘れないための「拾い」だろうか。こころは病むが、動物(生物)としての生命機能は正常であり、月経が規則的にくるということを確認させてくれる。月経への悲しみがある。

「光のくるしみ」から

海面をのたうつ光のくるしみを凪ぎゐるなどとゆめのたまふな(91)
海面の光の揺らぎはひかりのくるしみであり、それは自身の苦しみのメタファーである。海面は凪いでいるけれども、それを穏やかで賞賛するような発言を嗜めるような歌である。海面のひかりのゆらぎをこのように詠った歌人を私は知らない。彼女の日常の心情が波をそのように見せるのだろう。

「夏への手紙」から

この足にあゆみを許されいつの日か白詰草を踏むのだらうか(100)
新しき季節を感ずるため捨つる記憶もあるらむ手をかざす君(101)
「この足にあゆみを許され」、「新しき季節を感ずるため捨つる記憶」など作者独自の事象の観察のなかで生み出された表現は、心から漏れ出た体液のように彼女のにおいがある。

「秋の日捲り」から

手の小さき妹が花嫁になるわが妹がもみぢの下で(112)
妹の婚姻を詠う。「妹が」、「わが妹が」のリフレインがこの歌では効果的であり、喜びを増幅させている。「手のちいさき」「もみぢ(手を連想する)の下で」の「妹」への修辞がさらに効果的である。

電柱を埋められ空を編むための糸をひと束なくしてしまつた(115)

この歌を補足すると、「(東京電力に)電柱を埋められ(私は)空を編むための糸をひと束なくしてしまつた」となる。電柱を、空を、糸を、の助詞「を」の反復を読者はどう受け止めるだろうか?

「闇の温度』から

二時間の帰路の寂しさことごとく二時間かけて思ひ返しき(126)
二時間かかって帰ってきた、その途中の心情を二時間かけて思い返している。どのような寂しさだったのかは分からない、しかし二時間の細かい感情の起伏や襞のひとつひとつをなぞるように振り返る。「二時間」の反復が見開きのページの合せ鏡のようで全体の文脈がメタファーのようだ。

なお、130ページから148ページは水甕賞の受賞作品となる。

「母の目当て」から
 
おとなといふおほきな人になつていくときはぜつたい痛いとおもふ(131)
水つ気を切らむと空が手を振つて払つてるやうな気まぐれな雨(131)
雨は葉を揺らさず振りぬ手紙など書かない人と隣り合はせて(133)

物理的に体が一日に数センチ伸びるとき(少年期など)はミシミシって音がして、実際痛みを伴うという。そうでなくても大人になることは痛みを伴う。それは大人という生理的な体の機能を自身に知らしめるサインのようなものだ。それを快く受け入れるか、そうでないかは人による。作者はおそらく快くは受け入れてはいない。
気まぐれな雨とは、手に付着している水分を振り払おうとして空が手を振るのだと作者はいう、作者独特の新しい比喩だ。
人と静かに隣り合わせて座っている。授業中か何かの講演会を連想する。隣は手紙を書かない人だから、雨は葉を揺らさず静かに降る。春雨のような静けさがある。隣の人とずっと座り続けるため、手紙を書かない人を思いやる優しさがある。

「陸離たる空」から

きみが使へばそれが私の語彙になるミリセカンドといふ光のやうな(136)
白きもの降らする白き空鳥を抱く空まなこ閉ぢさする空(137)
イカロスの翼の形に張り詰めて永久に落ちない吊り橋はなし(139)
きみの名に忌と続ければ唐突に君は死にたり陸離たる空(139)

病院の医師(あるいは、技師)が口にした「ミリセカンド」という言葉、作者にとって聞き慣れない言葉だったのだろう、それは現世を突き刺す、未知の言葉に聞こえたのかもしれない、まるで光のように。
空は色々な表情を作者に見せてくれるが、まなこを閉じさせるように眩しい空と思われる、がそうだろうか。空をそのまま見上げるよりも、まなこを閉じて空を見上げたほうが眩しく見えないだろうか。白いものを降らす白い空、鳥を抱く空。全て白に同化してしまって白い空になる。そして作者も空に同化してしまいたいという憧憬があるのかもしれない。
イカロスは太陽に向かって飛んでいって翼が溶けて落ちてしまった。吊り橋のすがたやこの世のすべてのものに永遠はない。いつか失われてしまうから美しい。たとえ自分にとって苦しくて悲しい現在であっても、それは永遠ではない。作者はこのことに羨望と諦念という相反する事実を見ている。
「陸離」という言葉を知らなかった。「陸離」を辞書で引くと「光の分散するさま、光の入り乱れて美しいさま」とある。歌集のタイトルにもなった歌である。
君の名前に忌をつけて、君の死は光の分散する美しい空になる。生とか死は同じ質量で存在していて、いつでも生は死に変換しうるという仮想感がある。

「紫陽花」から

灘を灘とも気付かせぬまま舵を取るあなたのなかの死者に会いたし(149)
父死にし時間にとはに垂れてゐる紐をくつくと引けば点れり(151)
父よ母よ、曾てせざりし呼びかけを花火の空に呟きてゐつ(151)

この一聯は父母を想う歌である。
一首めは、灘を灘とも気付かせぬまま舵を取るあなた=父と読んだ。ここでは父は死んでしまっているのであって、死んだ父だけが現実である。ゆえにこの世での現実の死者であるあなたに会いたい、と読んだ。
二首目の「紐をくつくと引く」という行為によって死んだ父のの時間を引き寄せて、なおかつ今だに共有しているのだろう。「紐をくつくと引く」という行為はおまじない的であり、また呪術のときの儀式のようでもある。
三首目の「曾てせざりし呼びかけを」が実感であり共感を呼ぶ。

P.178からは病棟での入院生活を詠っている。

「こゑを貪る」の一聯に看護師への仄かな慕情を感じる。

男性の看護師同年代多し脈に触れらるるときの疼き(174)
自己愛のたっぷり充たされゐる患者その後ますます饒舌となる(173)
この声が私にむけらるる日々は僅かとなれりこゑを貪る(176)

「出口となさむ」から

入口はこの白きドアのみなればいつの日か此処を出口となさむ(179)
サンドイッチに指のへこみが消えなくて初夏の汽笛は空を広げる(175)

これらの歌には入院中ではあるが、希望のある爽やさをイメージした。
二首目は「サンドイッチに指のへこみが消えなくて(けれど)初夏の汽笛は空を広げる」と読んだ。指のへこみは目の前に置かれた現実である。しかし「初夏の汽笛は空を広げる」には、完治したときに広がる空なのかもしれない。再び新しい生活を望んでいる希望が歌われているのではないか。

後半の心に残った歌

金木犀の香りの最期の一滴はその木自身が浴ぶるのだらう(207)
真つ直ぐに降る早春の雨の音の主成分こそ青いのだらう(212)
満開の桜の下を行く人よ私を北へ連れてゆくひと(213)
雷鳴のとどろく海に泳ぐこと銀のくさはら隠し持つこと(214)
ブラインドといふ刃物の捌きたる月の光を一枚踏みつ(217)

「陸離たる空」のタイトルにもあるように、空に関連した語彙が比較的多用されている。送電線、電柱などである。彼女は空を見上げていることが多い。それは、あとがきにもあるように、鉄塔を見上げていた、空を見上げていた、とある。作者にとって「空」は特別な存在なのだろう。そこには父の視線がある。作者は喪失する以前に、既に喪失の痛みに苦しめられている。「陸離たる空」は、キラキラ光って消えてゆく喪失の空であり、父や、会いたい人、大切な人や物がいつかは消えてゆくところなのである。消えてしまったあとはキラキラ光って、微笑んでいるだけである。短歌とは「苦しみを変える変圧器」と自身で述べているように、喪失の痛みを変圧することで自身の心を修復している。しかし彼女は、空へ消えていってしまったもの、喪失してしまったものに対して諦めてはいないのだという気がする。喪失の痛みを変圧してはいるが、再び取り戻すために詠っているという気がするのである。しかし、短歌はあくまでも変圧器であり、苦しみや悲しみを喜びに変えてくれない。変圧(減圧)器であって変換(転換)器ではないのである。

この歌集を多くの人に読んで欲しいと思った。

なお、わたしのなかで意味のとれなかった歌を記載しておく

てにをはが雑になつたと指摘さる半袖着なくなりし頃より(119)
大股でよぎる庭先打ち水の涼気及ばぬ高さにゐたい(121)
瞼より眼が偉いばつかりに静かなひとになれないと泣く(122)

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