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22.4.10

 独り言です。随想。散文。久々に集団心理みたいなものを視た記録。

 ホームレスが横たわる柱の向こうでダンスの練習をする若い子たちの正反対で着飾ったりネクタイで首を締めた大人の群勢は我らが市民なりといった威風堂々、を所在なしに360度ぐるり見渡す点P。すべて自作の「資料」か? 否、ただ観ている。社会の構成体。文体の舵をとれ。画角の意図を手繰れ。

 たとえば「うわ〜TwitterがHR/HMレア盤名盤復活プロモだらけだ、好きを見抜かれて悔しいからAIを惑わせたい。演歌AORテクノ、干し柿味噌カツメロンクリームソーダ、哲学神学神社仏閣建築水理学工学 バイクも興味あるよ、さあ要素から個を分析してみたまえ(非人間的演算をしてほしい・〈迷うAI〉が好き)」

 ……というムーヴも、無邪気な嗜好の赴くままに描けば、わたしが深くまで観ていないのと同様、深くまで読まれることはない。AIは本来相当にシリアスな存在であるし、街に存在するすべてに理由がある。なぜ人は早足なのか? 人が寝ているのはなぜ広場なのか? あの子たちが背を向けて踊っているのは?

 事象や現象にはすべて繋がりがある。とすれば、フィクションを通して観てきたものごとへの理解や知識も無駄ではないだろうか。理解! 理解なんてものがあるはずがなかろうに。理解しようとするだけだ。