ハッピーエンドはまだ遠い

自己紹介しておくと、温厚・平和主義・みんなで手を繋ぎみたいな、そんな奴じゃない。てかそんな一文で完結にまとめられて溜まるかとか思うし。SNSは美しいもので溢れているから時にはありえないくらい脳の奥の奥にあるドブのような考えをここに記そうと思う。まあドブネズミは美しいって言いますし。
イラついている。こんな風にはなりたくないってやつばっかだし、うざいとかそんなこと言う自分もウザい。ウザいとか簡単にいうなや。自分。しんどくても、誰かの名言に縋っていてもどうもならないしよくある偉人の名言もただそいつの考えであって、僕は違うと思ったらそれは別に名言じゃないし、刺さらない。そもそも最近のSNSで出てくる名言とかはどこの誰が言った言葉か分からない。名言なんて作られるものじゃなくて生まれるもんだろ。自分は自分しかいないのだから、そんな名言とか自己啓発の何かより母ちゃんの暖かい夕飯を食べたいと思う。
少しでも思考すると頭がおかしくなりそうで、そんな毎日は喉を通りにくいが無理やり飲み込んで無理やり消化している。生きていくのに必死になっている。頑張れ消化酵素。
思考を全て放棄出来る時間は本当に楽だし気分が楽だ。ライブの時間。バイトの時間。寝ている時間。だからずっと眠いんじゃないのとかも考えてしまう。じゃあずっとそれしとけばいいじゃん!とか言われてもそれまた違う。生きていくことに妥協したくないし。受験期に遊びたいけど遊べないみたいなあの現象と似ている。あの瞬間だって本気出せば遊べるのは知っているけど遊んでいても心から楽しめないし、絶対後悔するって自分が一番知っているから遊べない系の、アレだ。ちなみにこのnoteを書いている時間はどうしても日常が鬱屈としすぎて耐えきれず吐き出している。症状的には胃腸炎でこの文章はゲ〇みたいな。まあゲ〇も一周回れば愛着湧くやろ。このゲ〇は記録という意味も立派に担っているし汚くても許しておくれ。
最近はすぎイライラしてしまうしずっとイライラしている。もはやイライラすらしなくなる時がある。イライラと書くのにイライラしたので以下「イ」とします。暇なんかと言われても違う。暇じゃないしちゃんと忙しいけどその脳みその隅の隅でイしているのだ。川の流れのように緩やかにもう時代に流されてなんの疑問も持たずに生きればよいのに。多感でも才能でも無く阿呆なんだなあと苦しくなる。(ちなみに美空ひばりさんがいう『川の流れ』は時間とか流れるもの、スケールでかすぎるぜネエサン、、)だからと言って自己嫌悪に苛まれているわけでもない。普通になんの変哲もない日常を消化しようとすると疑問がグルグルしてしまうあれですね。割とマジで周りの人はないのかなとか考えてしまう。みんな思っているけど口に出さないだけなのかな。遠い未来に向けた自己投資、何が役立って何が役に立たないかだって未来にならんと分からんだろ。燃焼していた時というのは、必死にボール追いかけていた放課後とか、今はキャバ嬢になってしまった元彼女の為に必死にチャリ漕いでた中学生の時とか、もうそんなん。そういう時って今を必死に生きていたんじゃないでしょうか。中学生の時に自分がサッカー選手になれないってやっと知った。どうやって知ったんだっけ。高校の時だってバレーボール選手本気でなりたくてバレーで全部大学選んだし。別に(食っていける人/母数)が小さい職を目指していたからどうとかいう話ではなく、諦めたことがきついし、その時その時で今必死になっているものを職業にしてやろうと思っていたためその方法が体にしみこんでしまっていて上手く抜けだせないということである。難しい話になってきてしまった。最初の将来の夢ってかっこいいとか楽しそうとかそんなもんだし。『容疑者の弁護楽しいから弁護士目指す!』みたいなの、そんなんないですよね、例えるならそんな感じな気がする。仕事を目指して動くってシステムに疑問を持ってしまうのだ。仕事ってこの生活の延長戦上に生まれるものちゃうんかえ言うやつですね。似たような話思いついたからすると、マッチングアプリとかは好きな人と付き合うための行動やんみたいな。それは無理。マッチングアプリが危険とかチャラいとか全くなく、寧ろやってる友達も良い奴ばっかだし、けどなんか順序違くないかと思ってやろうと思わない。多分脳にメス入れられない限り出来ない。なんか行動がきっかけで好きになるんやん!好きになるための行動ってどゆことやねん。これ、彼女とか奥さんいる奴が言ってたらマジで説得力あるんだよな。つまりこの説は説得力が無い。僻みに捉えられてもしょうがない←僻みに捉えられないための保険
高校生の時、大学の俺がバレーを辞めるなんて想像出来なかっただろうし想像出来てたらもっと頭の良い選択をしていたはず。ただそういう遠回りこそ大事じゃないのかと思う。思いたい。そう思わないとこんな遠回りばかりの人生耐えられない。腰が曲がりに曲がって、死ぬ直前(100年は絶対に生きる)に『あぁ、あん時も無駄ではなかったなあ』ってなれば良いと思っている。まあ実際小さい時の遠回りや失敗が今の自分に繋がっているし、全部百点満点の人生だったらきっとこんな考えることもなかった。自分の道を歩んでいこうと思っている。とは言え周りと比べることばかり。でも、あんなふうになりたいとかあんなふうになりたくないとか周りの事、目に入れないようにしている時点でそれはもう周りを気にしているのである。
普通に嫌いとか見下すとか煽りとかじゃなくて、疑問に持たずに生きられるのはどうしてか気になる。怖くて聞けないけれど。なんで何に向かっているか分からない状況をそんなに簡単に飲み込むことが出来るのだろう。とかこの状況にムカつかないの?とか”なんか思っていたんと違うな”って感覚ないの?とか。自分は人生燃焼させているんか、とか。尖っていた友人は丸くならないで居て欲しいし、流行には疑問を持つ屈折した人間で居て欲しい(そんな人間が多数派になればそれが流行になるためそれはそれで困る)でもいつしか自分もきっとその疑問や願望は消えるし、消えてくれないと困る。一応社会で生きて親安心させたいし。社会適合者にはなりたい。大人になっていってしまったら守るべき者や自分より大切な人が増えて、そのものの為の人生がスタートし、どうしてもこんな考え生まれなくなるんだろな。その方が多分めっちゃ良いし幸せだと思う。今は。幸せって何だろう。瞬間的な幸せと永続的な幸せがあると思うし。ボウリングでストライク取っても幸せだけど信じられないかもしれないがなんか暮らしを全体で見たらそこまで満たされていない。なんならそれを誤魔化せるようなお酒や音楽、シチュエーションも存在する。いやでもそれも幸せの一部なのかも。

でもこういう風に考えて行動しない、愚痴を吐き散らかす、人は、ただのクレーマー、ヤフーニュースのコメント欄、スレッズの返信欄、と一緒なので私はならば動いてやると足を踏み出した。本当に今やりたいことへの一歩である。将来とか考えずに。自分らしい人生を歩もうじゃないか。

こんなウダウダ悩んでいたら父さんに『考えすぎ』と嫌な顔されるんだろうな。でもここで自分が考えたこうだったら面白いなと思う妄想、『父さんが嫌な顔する理由』を紹介しよう、

『父さんが嫌な顔する理由』
彼は昔、息子と同じように考え込んでしまう癖があり、それでも食べていくためには追い続けたい夢や、やりたいこと、そのロマンは殺さなければいけないことを知った。息子に同じようになってほしくないので中途半端に泥臭さを持ってほしくないのだ。自分の昔の姿を見ているようで嫌な顔をしてしまう。少しの日々の幸せと平和があればそれでいいじゃないか、、と思うが心の中のもう一人の閉じ込めていた自分が騒ぎそうになり嫌悪感を抱いてしまう。

こんな話はどうだろう。会ってみたいなあ、過去のお父さん。どんな感じだったんだろう。経験や育ってきた環境によるんだろうけど、明らかに性格だって、父か母に似ているわけだし。父ちゃんの昔話を聞く限りモラトリアムぽいし。

安定していたい、お金も生活も。けど10年後も20年後も安全が保障されていて未来がみえているなんて生きている心地しないんですよね自分は。スリル大好き狂人ってわけでは無いが、突拍子もないことや自分の想定外のことが起きると面白くなってしまうことがある。小学生の頃色んな妄想をしていた。線路に落ちたおばあさんを助けてヒーローになる妄想、人型の宇宙人が到来する妄想、隕石が降ってくる妄想。変な事起きないかなってずっと思っていた。ただ今の世界も好きだしこのままあって欲しい、矛盾に塗れすぎて情けなくなる。
自分は全然賢くないが、もっとIQぐっと下げて猿みたいな人間になったらtiktok見て起きて食って寝て繰り返して死ぬほど楽しい人生を謳歌できたのになとか思う。ごめんなさい。多方面に失礼なこと言っているし、しょうもないほど面倒くさいのは承知している。でも自分に正直になるとこうなるからしょうがない。

ただ、それを発散する方法が一つだけ存在すると思っている。
それが”表現する”ことだと思う。とにかくその表現に思いをぶつける。なんでもいい。音楽、写真、小説、料理、映画、絵画、彫刻、演劇、、、など、、こんなnoteという文章でも。表現する。そこで自分を伝える、声に、形に、するのだ。別にそれをやったところで現状は変わらないし、自己満足にすらならない場合もあるが、やることを補える上、それはどこかの誰か、あわよくば未来の自分へのエールになるのかもしれない。個人的に映画や小説は自分がなりたいけどなれない世界線の者の話を書くことで自分には辿り着けないハッピーエンドに到達できるから素敵だと思っている。

小さい頃は大人ってなんも関係なく頭ごなしに否定してくる生き物だと思っていた。少し自分の虚無感を話すと、自分の研究室の教授は「アウトプットだけでは無くインプットも。考えることに疲れたなら更にもっと考えられる。どっぷりと浸かれ」と言った。今一番欲しいアドバイスだったのかもしれない。

おばあちゃんにお年玉をもらえているうちは、若さという言い訳をして、過ちを恐れず大きな過ちへの道を進んだり戻ったり振り向いてみたり、ゆっくりと徘徊させていただこうと思う。


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