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正義と欲望の狭間

義父との哲学議論が終わる前に、話していた話題にも触れておきたい。

先日、義父と話をしているときに、戦争を止めるというテーマが持ち上がりました。義父は戦争を止めたいと強く願っており、その話に関連して最新のニュースについて私は話しました。内容はこうです。トランプ前大統領がバイデン現大統領に向かって「私ならプーチンと会って戦争を止めることができる」と発言しました。この発言を受けて、プーチン大統領は「トランプが戦争を止めたいと思っているなら話し合う価値がある」と答えたのです。

しかし、私はこう話を加えました。トランプは平和を取り戻したという名誉が欲しいだけではないかと私は指摘しました。また、プーチンもアメリカと再度友好関係を築けるなら話し合いに応じようと思っただけで、互いの利害関係が一致しただけだと言いました。戦争をやめさせること自体は素晴らしいことですが、その動機が私利私欲に基づいているのは問題だと私は感じていたのです。

義父の意見はこうでした。「多くの人が助かるのであれば、誰が戦争を止めても良い」と言いました。この点についてもさらに深く考えることになりました。私たちは「邪心があっても目的が達成されれば良いのか」という議論になりました。

さらに考えを進めると、トランプ自身は自分の行動が正義だと信じており、私自身はトランプの行動は邪心だと思っていたのです。つまり、正義と悪は人それぞれの立場や視点によって異なるのです。自分が正義だと思って行動していても、他人から見ればそれが悪であることもあり得ます。そのため、正義という言葉を簡単に使うことはできないと考えました。

この議論を通じて、私は正義と欲望、動機の純粋さについて改めて深く考えることになりました。義父が言いたいことは、その行動が多くの人々にとって利益をもたらすなら、その行動は正しいと言うのです。

そして最後の議論へと突入したのでした。


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