推し事のコミュニケーションツール化

貴方にとって『推し』とはなんだろうか。
それに伴い『推しの定義』はなんだろうか。
そして『推し事』とはなんだろうか。
この辺が最近乖離を感じてもやーんとするので、仮説を立てに久々にnoteを開いた。
前のnoteめっちゃわらビーについて語っててウケる。

さて、人の名を聞く時には自分から名乗れという論法に則り、以下は私にとってである。

私にとって推しとは、『己が心を掴んでいるもの』そして推しの定義とは、『取捨選択できない』もの。
おそらくこの二点である。
一万円の抽選券なんて本当に馬鹿げてる。本当に。心から。でも『買わない』という選択肢は『絶対にない』。
絶対つまんないor自分に合わない作品に推しが出る。
でも『見ない』という選択は『絶対にない』。
自分を二の次にしてしまうのが『推し』

それが、私にとって推しというものの大前提だ。
なので取捨選択ができるうちは好き〜って程度であり推しではないと私は思っている。
それこそ座席が悪いから行かない(これは配信があるからとか見る術はあるし、という意味ならまぁ分かる。下手な座席より配信のが良いよね)とかなら、それは自分優先なのだから推しは自分であり、相手を推していると言えるのか?みたいな気持ちがある。
好きなもの=推しではないのだ。

で、『推し事』というのは推しと自分のコンディションや気持ちに応じてできる最大公約数みたいな意味合いだと私は捉えている。
推し『取捨選択出来ないほど好きなもの』を取るために、『どこまでできるか』が推し事。
嫌いな演目だから一回だけにしとこう、好きな演目だから全通しよう🎶そうやって取捨選択出来ないほど好きなものへの、力の込め方を考えるのが推し事である。
好きなものはずっと握っており、その力加減が変わるというイメージである。

ただこれは本当に人それぞれ(特にコロナ禍)で、推し事出来てないから私にとって推しとはなんなのだ〜と悩む人もまぁいるけど、その辺は自分で解決してほしい。
もう一度書くけれど、これはあくまで私の定義である。

なので『推し』も『推し事』も「推しと自分」でしかないと私は思っている。
ただ、最近思うのは推し・並びに推し事はコミュニケーションツールなのだな、と最近思う。
娘が俳優の写真集うん冊買おうとしてアホかと私は大剣には金は払えるが〜みたいなツイートがバズっていたが、これどうせ後で消えるんだろうなと思ってたら消えてた。
推しに会うのも体験じゃね?と思っていたのでなんとなく不思議だったんだけれども、そのツイートの中で「皆これぐらい買う」と娘さんが言っていたのが私は印象的だった。

いくつかは知らないがバイトを禁じてるとかそういう話だったので、おそらく高校生ぐらいなのだろう。
だが、この子たちにとっては推しも推し事もコミュニケーションツール、め〜っちゃ平たくいうとスマホと同程度のものなのかなーという印象である。
皆持ってるから買って、には自分の意思なだほとんどない。
まぁ高校生なんて大半自我がないと思うのでそれもそうなんだろうけど。
あと同時期に昔のオタクあるあるで、「ひとつのジャンル5年とかざらだった」みたいなのがあー確かにと思った。今って本当に2〜3年で、恋は3年で冷めるとはよく言うがまさにその、要は新規ハイが終われば次の新規ハイへ、みたいなロードレース状態なのかなと思った。
ツイート探したからこれだった。BLの話だった。惜しい。



そんなことを考えるうちに思い出したのが、昔は「よろずサイト」とか当たり前だったなぁ、である。
私はこれらが好きでーす!の自己プロデュース力にものを言わせた個人サイト、個人サークル、皆個人にパワーがあったように思うが、今は違う。

投稿はSNSというプラットフォームの範疇でしか表現せねばならず、要は自己プロデュース力が削ぎ落とされてるのかなと。
だから逆にいえば自己プロデュースが強かったり、プロデュースしてくれる人をつけたりすると強い。
もちろん仕事においては他人の評価は大事だけれども、
好きなものの好きなことに他人、どうでも良くない…!?っていつも思う。
だって趣味だぞ。唯一自己完結していいものだぞ。

私は割と好きなものへの傾斜角が鋭い方で、要はハマるとスコーン!と言ってそのまま5、6年は余裕でいるタイプである。そういえばはるか昔にフォロワーが〇〇に三年もハマって…みたいなツイートを見て普通じゃね…って思ったの思い出した。
もう繋がってないので今何をしてるか知らないけれど。

だがそれも人の特性であり、正味わたしは新しいものへのハードルはめちゃくちゃ低い(勧められたら少しの興味でなんでも見る)のに、ハマるとなると殆ど「ない」のだ。
人から勧められてめっちゃハマったものってなんだろうなと思い出して幻想水滸伝だなーって感じ。
どうでもいいな、話を戻そう。

ただこれは私が推しも推し事も自分だから完結している事で、これがコミュニケーションツールなら、皆大変だなぁと本当に思う。
だってゲームボーイ持ってないと話できなかったもんな。
携帯ないとメールできなかったもんな。
推しがいないと、推し事をしないとコミュニケーションが取れないって大変だろうな…。
もちろんコミュニティは他にもあるのだ、ゲームボーイを持ってないコミュニティ、スマホを持ってないコミュニティ。

ただ、今属しているコミュニティはゲームボーイを持ってるコミュニティだしスマホを持っているコミュニティであり、推しを持っているコミュニティで他のコミュニティに関心がないのだ、と言う話だと思う。

私だってウォーターボーイズに関心なかったしごくせん1は全然興味がなかった。龍騎にハマってた。狭い田舎で龍騎にハマってるコミュニティは当時ゼロだった。
まぁ、それで私は平気だったのである。一人で狂って一人で死ぬ、多分ずっと私の中でそれがある。
人間死ぬ時は一人だし、一人の方が身軽で気軽で私はそれが性に合っている。

長く狂ったツイッタラーなので、ありがたいことに私にも同担のグループが存在しているが、長く続いているのはこのグループ内で「連番しよう〜」というムーブメントがないからだろうなといつも思う。
各々現場へ行き、各々居て時間があれば茶をしばく、というあくまで推しありきの程よい距離感がありがてえすぎる。
もちろん推し抜きで遊んだりもするので、本当にありがたい話である。

だが前述したように推しが、推し事がコミュニケーションツールだとそうは行かない。
推しに熱狂しておかないと、周囲の熱に置いていかれる!とか。
行かなければ、やらなければ、急かされてやらねばせねばと義務感に駆られて、そんなのはまぁ、大変だろうな…と思う。
お互いにハマっているから、という相乗効果と足枷は紙一重だなぁと推し事というコミュニケーションツールと化したものを見てて思う。


思えば私は昔から流行のエンタメに首は突っ込むけど同調圧力が死ねほど苦手なのだ。
こうやって隙自語してしまうタイプなのだ。
自分の言葉でしか喋れないので、やはり推しを語り継ぐ吟遊詩人になりてぇな。

おわり



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