「知性の磨き方」第一日感想

『知性の磨き方』の感想。先日は先立って第2日「読書の幸福」の感想を書きました。今回は遡って第1日「学問の愉しみ」について書いていきます。

学問の「方法」を学ぶ

多芸とも評される著者にとって、自身に身についているのは専門分野の知識だけでなく「学問の方法」がある、と述べている。
様々な活動をするにあたっても、それは各分野に対して「学問の方法」を応用させているから成立しているとのことだ。
ひとつのことを専門として学ぶとして、専門知識そのものは他の分野ではまったく通用しないとしても、そのための道筋や要領を応用すれば十分対応ができるというわけだ。そのため、「ひとつのことしか知らないから、他の分野は知らない」と切り捨てることは実にもったいないということだ。
正直、すべての分野には適用できないとは思うが、世の中案外気合入れればできることは多いという意味ではそうだと思う。

パワプロクンポケット7の任月駆

パワポケ7の任月カケルも近いことを言っていたな…と思った。
任月カケルの場合は苦労とか忍耐とかネガティブを抱えて乗り越えることができるとしているが、本書での捉え方はもう少しポジティブに、学ぶことで得られること、応用できることといった知的活動の広がりを伝えたいのだと思う。

大学の「カルチャーセンター」化

学問の府としての大学のあるべき姿

異なる観点ではあるが、「学問の府」としての大学を、上記では以下のように述べている。

学問の府としての大学数育とは教科書で教えるものではなく,基礎研究に打ち込んできた者がその経験と迫力をもって講義をし,研究の実践を通しておこなうべきものであり研究業績とは切り離せない。この視点が現在の教育科学評論に欠けて いる。

学問の府としての大学のあるべき姿

本書でも「ちょっと教養を身につけようと、カルチャーセンターに通うようなつもりで大学に行く人だっておびただしくいる」として、大学がカルチャーセンターのようになっていないかと懸念を示している。
「学問はそんな薄っぺらなものではない」とも主張しており、上述にもあるとおり先人の教授、先生の経験やノウハウから学んで実践をする場であるとのことだ。

私が通った大学についても、正直カルチャーセンターのように利用していたのかな…と思ってしまった。
学問やサークル、私生活すべてを含めた学生生活ではあると思うのでまったくの無駄ではないものの、大学で先に学んでいる人から経験やノウハウを吸収するせっかくの機会を逃していると考えると、やはりもったいないと感じてしまう。
大学に限らず、あらゆるサービスは100%フルに利用することはできないので、極論にも行きついてしまいそうだが。

こういうことを知ってから大学受験したかったな~と思いつつも、後悔するよりもまず今読書なり勉強なり進めることが良いなと思うのだった。
なお、大学時代から勉強…というか記憶の仕方も変わってきているというのもあり、勉強のアプローチも変化は必要だから必ずしも大学で得た方法一辺倒にはならないとは考えるべきだろう。ここらへんは『すごい脳の使い方』を読んで救われた気分だ。

おわりに

本書にて、学問は自転車を漕ぐようなものとも述べられている。
自動車のように乗って楽するものではなくあくまで自力でというわけだ。ただ現代ではサポートしてくれる要素も増えてきているので、自力で勉強するという前提はありつつも、電動自転車などの存在を知って活用するぐらいの気持ちでもいいのかなと感じた。

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