日記(論語と算盤 感想)

この本面白いから読んだほうがいいっすよ!
恥ずかしながら読んでいなかった『論語と算盤』を読みことにした。確か『栗山ノート』で論語がよく出ていて、論語と算盤にも言及があったから興味がわいたのだった。こうして読書のリレーが繋がっていくと…いいな…。

渋沢栄一は、まさに偉人というべき功績を残した人物だが、本書を覗いてみると不思議なほどに驕りもせず謙虚すぎるわけでもなく、仏のような完全な平和な心を持っているわけでもない、まっとうな人間であることが窺い知ることができる。ちょっと漢文くわしいおじさんの話聞くぐらいで、気軽に読めることに驚いた。構成も20~30ページ×10章で気軽に読書を取り組みやすい。以前渋沢栄一の伝記みたいなものを読んだことはあったが、そんなものよりこちらを真っ先に手に取るべきだったなと今更後悔。とはいえいま読めているのでOK。

ミーム

また習慣は、ただ一人の身体にのみ付随しているものではなく、他人に感染するもので、ややもすれば人は他人の習慣を模倣したがる。

「習慣の感染性と伝播力」

著しい例証を挙ぐれば、近来新聞紙上に折々新文字が見える。一日甲の新聞にその文字が登載されたかと思うと、それがたちまち乙丙丁の新聞に伝載され、遂には一般の言語として、誰しも怪しまぬことになる。かの「ハイカラ」とか「成金」とかいう言葉は、すなわちその一例である。婦女子の言葉などもやはり左様で、近頃の女学生が頻りに「よくッてよ」とか「そうだわ」とかいう類の言語を用いるのも、ある種の習慣が伝播したものといって差し支えない。

「習慣の感染性と伝播力」

たとえば新しい言葉がメディアを通して世間に広がれば、それは一般的なものとして誰も怪しまずに浸透することになる…。
渋沢栄一、現代人か?というレベルにそのまま通ずる文章で、そのあとで習慣について用心深く扱う、注意を払うことを必要としている。
SNSが主流の現代では言葉やミームに限らずこの習慣という「流れ」はせき止められずに進行しがちだ。流れに乗ったほうが楽だからとか、結果的に情報交換が効率よくなるからとか、用途は様々かもしれない。本書でも伝播自体をけしからんとしているわけではなさそうで、ただし習慣というものは、必要に応じてそれを改められるような姿勢でなければならないとしている。

ミームは真剣に使っていないからミームなのかもしれない。ぬるま湯につかる感覚で用いて飽きたら捨てるスタイルに過ぎないのかもしれない。主体性が無いと、飽きる前や後に自力で捨てる…という機会自体が訪れることがなく、結果的に惰性で吸い続けるだけになっているのかもしれない。そうなると、ゆくゆくは変化を嫌うようになってしまうだろう。渋沢が争いを肯定しているように、変化に対しては敏感に、適応できる人間でありたいものだ。

日本人

日本人は細事にもたちまちに激する。しかしてまた、ただちに忘れる。つまり感情が急激であって、反対にまた健忘性である。これは一等国だ大国民だと自慢なさる人柄としては、頗る不適当である。もう少し堪忍の心を持つように修養せねばいけますまい、という意味であった。

「精神老衰の予防法」

渋沢栄一、本当に現代人ではないんですよね?
主語が大きいのは怪しめとは言うが、これだけ以前から変わっていない国民性というのを見ると考えものである。SNS時代でモラルが崩壊した、というわけでもないのが論語と算盤を読んでわかるのはなんだか不思議な気分だ。
なおこのセクションでは青年だけが注目されるのではなくて、老人もまた老衰しないように磨きをかける必要がありますよ、と述べられている。高齢化社会が進んで身体が健康かとかは別問題で、精神が衰弱しないように勉強あるのみだ、というわけだ。真面目だなあ…と思いつつも、からだだけ元気でもなあと思うのは確かにその通りなので、上の習慣の話といい参考にしたいところだ。

ちなみに、上記ふたつの内容は、ちくま新書版には無かった。編集ってそういうこともあるんだと学びにもなったし、参考になるなあと思ったところが消されているのはちょっと面白い。逆張りでむしろ頭に入ってしまいそうだ。

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