「知性の磨き方」第二日感想

「学問・読書・遊びの「方法」を愉快に語る」という触れ込みが面白そうで読んでいました。
読書論に関連した書籍を少しずつ読んでいましたが、もっとフランクな内容が欲しいと感じていて、ちょうどよさげな本という第一印象でした。なので、真ん中の「第2日 読書の幸福」から読む…というかこの章だけ読むぐらいでいいか、と思っていたのですが引き込まれる内容だったので結局読破してしまいました。
そんな本書の「第2日 読書の幸福」についての感想です。

読書のきっかけを待つ

「時間があれば本読みたいんだけどね~」と人はよく言う。

本章では、内的動機が生まれて自分で本を手にして読む『そのときを待つべき』とし、自発的な読書に期待をしている。
これは課題図書とか読書感想文といったものを用意する教育への批判でもあるが、なかなか本を手に取れない(かつての自分もそう)人に対する助言でもあるだろう。

そうした人に対して、読書に熱を持っている人は、ついついおすすめの本をどんどん教えたりしてしまうが、自分自身で「探す」ことで手にした本でなければほんとうに面白い本には行き当らないという。

本書では朗読などのアプローチを用いて読書への関心を引き寄せている手法も紹介されている。また書籍をおすすめ行為について、自発的に「勝手に読ませる」ことや、薦めた後の反応を伺うことは避けることを推奨している。ダニエル・ペナックの『奔放な読書』を引用して、以下のように述べている。

それから最後の締めくくりにはね、「私に本を読む気を起こさせてくれた数少ない大人は、それらの本の優越性を認めて身をひき、本を読んで私が何を理解したかを質問しないように十分気をつけてくれた。もちろん、彼らに私は自分が読んだ本のことを話したものだ。今も健在な、あるいはすでに亡くなったそれらの人々に、この本を捧げる。」
これは名言です。

「国語教師たちの罪」

『古今の名著』をすすめた際に、すすめた人(自分)よりも本を読み進めたほうがウンと良い経験になるはずなので、よけいな解説やらフィードバックやらを急かすことはしないほうがよい。
読書感想文もアウトプットとしては大事な活動だけれど、それを強要してひねり出す行為になってしまうと真に自発的にはなれないということだ。
やはり人への押しつけはダメというわけだ。

一方で、ある人が読書したいと一念発起したときに、読書できるような環境を維持したり、おすすめできるような土台を個人が持っていたりすることは必要なことなのだろう。
けっきょく人は人知れず、本を読みたいと思う瞬間が来るのかもしれない。そうしたときに、まわりに読書する場所や、アプローチを提案してくれる機関とか知人がいることが幸福なのだと思う。

現代人の活字離れ

(1996年ごろの話題です)
「現代人の活字離れ」が世間で嘆かれているものの、それはウソであるという指摘をしている。
読まれる本や情報は変遷しており相も変わらず活字は読まれ続けていることが第一の主張。
また、「活字離れ」の比較先が「高等教育を多くの人が受けるようになった」前なのでは?とも指摘している。教育が普及して多くの人が高校・大学へ進学できるようになったことが重要なファクターなのではとしている。

だから、多くの人は大学という枠だけ見て、「いまの大学生は本を読まなくなった」というようなことをいうけれど、そうじゃないんです、事実は。私がいいたいのは「本を読まないような人たちでも大学へ行くようになったということを喜ばなきゃいかん」ということなんです。これは皮肉でも何でもなく。

「知的エリート層の変遷」

また、そのような人たちが増えてきたからこそ、大学がカルチャーセンターになっていないかという懸念を、「第一日 学問の愉しみ」では主張しているのだろう。

現代ではさらに活字とは異なるエンタメが増えているため、真に「活字離れ」しているかは調べないとわからない。
教育は普及している、だがコロナとかそもそもの教育環境の悪化を考えると実際問題「活字離れ」は進んでいるのかもしれない。世間の動向は気になってしまうが結局読書というのは自発的な活動なので、自分自身が読書するのと、ちょっと読書が気になっている知人をサポートしてあげるぐらいの考えでいいのだと思った。


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