日記(乱読のセレンディピティ 再読)

この前外山滋比古の引用をしようと本棚を漁っていたら、気になってしまったのでまた読むことにした。
読書法!みたいな本を何冊か読みたいなあとはかねてより思っていたので、まずは本棚に眠っている(いちおう数年前に一回読んではいるが…)これを改めて読み直すことに。

心ある読者

書物の良書については、これを救済し細々ながら流通させるはたらきをする識者があらわれて良書の命を守りつづけ、次の世代に伝えてきた。それが少数の良書。古典として生き残ることができる。

「心ある読者」

悪書はいつの時代でも、良書を駆逐しようとしている。大量に悪書を製造する現代において、良書との区別そのものがあいまいになっている。活字文化の危機といってよい。

「心ある読者」

書物だけに限らず、ネット記事やツイートはどうだろうか?そもそも「ほんとうに良いもの」の定義も書物とは別ものになるかもしれない。それはいいとして、良し悪しの区別はできているだろうか?
フェイクニュースは論外として、ネット記事やyoutubeのタイトルとかに「確定!」と「?」がついた瞬間に100%確定ではない、ソースもあやふやで憶測交じりなものという付加情報が加わる。雑誌の時代からこういう眉唾物な情報はたくさんあったのだろうが、フェイクニュースは許されなくてもこういうのはのびのびと働いている事実に結構いらだちすら覚える。とはいえ確証が持てないものは世に出しちゃいけないのかよと考えるとそんなことはないので存在していてよい、と整理はできるが…。情報が正しいからよい、正しくないから悪い、と二元的にとらえるのもやや怪しいものだ。こうした情報媒体は、古典にはならずに流れていく前提だからこそなお厄介だ。

とはいえ本書でもあるとおり、「読書ということはそれほどありがたいことではない」のは知っておくべきことだろう。別に崇高なものでもない。

読者が本の家来になるのではなく、年下の友人であるという自己規定をすると、たとえつまらぬ本でも、なにがしかの発見は可能になる。

「不健康な読書」

つまり本は、読者にとっては「年上の友人」の存在とみなすとよいというわけだ。全部鵜呑みにするには不用心すぎるが、かといって見下すのは失礼…ぐらいのポジションでいればよい。以前私は読書する本に対しては多少傲慢でもいいかも…と考えていたが、それだと知らないことに対しての反発が大きいかもしれないので、本書の内容ぐらいがちょうどいいのかもしれない。

久々に読んでも相変わらずの読みやすさなので、また読了まで行ってしまおうかな…と思っている。『論語と算盤』はゆっくり読み進めているので、ちょうどいい塩梅かもしれない。またまた3連休があるのでどんどん進められるといいな。


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