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名護屋城

名護屋城とは

本日は肥前名護屋城を紹介する。このお城は太閤殿下豊臣秀吉が朝鮮出兵の陣頭指揮をするためだけに築城されたお城である。1592年に築城し、豊臣秀吉が死去し、諸大名が撤退するまで使われたお城である。その間ざっと7年。朝鮮出兵こと文禄・慶長の役は1592年に始まり二度の合戦を経て1597年に終了したが、この間動員された兵力は日本側だけで約15万人。この数は関ヶ原の戦いで両軍合わせて動員された人数とほぼ同数であることからも文字通り史上最大の合戦である。今回はそんな合戦の為だけに作られたお城について紹介する。

名護屋城博物館

まず初めにこの名護屋城はとにかく広い。尋常ではないくらい広い。すべてを観ることができないほど広いので訪れる際はぜひ時間に余裕を持ってから訪れてほしいがまず城内を訪れる前に佐賀県立名護屋城博物館に足を運ぶのをおすすめする。ここは名護屋城に関する様々な史料を展示・保存している博物館で中でも名護屋城を表した屏風絵は貴重で名護屋城の全容を知ることができる貴重なものになっている。

亀甲船(左)と安宅船(右)の比較。どちらも当時使われていた船の模型である。

名護屋城内部

名護屋城は朝鮮出兵の後に容赦なく破壊された。破壊した目的として第三者の手にわたった際に反乱軍の拠点とならないようにするためである。そのため崩壊した石垣等が城内各地にみることができる。

破壊された石垣。最上部の石垣を取り除いたことによりV字になっている。

名護屋城でも特に注目してほしいのが天守台である。もちろん現在天守閣は残されておらず、現在は石垣と礎石が残されている程度である。かつて存在していた天守閣は5層7階、30mほどの天守閣がそびえたっていた。現在天守台にも登ることができるが大変絶景で、天気の良い日は天守台から対馬や壱岐、さらには朝鮮半島まで見ることができ日本と朝鮮半島の近さを体験することができる。

天守台からの眺望
太閤豊臣秀吉もこの景色を眺めていたに違いない

肥前名護屋は天守台以外にも、くの字型の正面入口や二の丸などが復元されており、大変魅力的なお城である。



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