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鉄道オタクをやめようと思う(Twitterから離れた話)2

前回書いた「旅行趣味を辞めたいと思った理由」をここで再度おさらいする。

念のため言っておくが、鉄道への熱が冷めたわけではない。

  1. 鉄道趣味が「偏執故の激烈な知的好奇心」ではなく、「SNSで数値化される”いいね!”が齎す激烈な承認欲求」の娯楽に成り下がったこと

  2. 自分の好んでいる車両/路線/駅/会社以外のものが消滅可能性を帯びたとき、為政者目線で(=利用者目線の介在無しに)切り捨てる人があまりにも多いこと

  3. 鉄道……ひいては交通そのものやそこに住まう人々の暮らしを観察する趣味者から漂う、「心の膜を張ったまま地域に踏み入れる」という暴力的とも言える態度

「SNSで数値化される”いいね!”が齎す激烈な承認欲求」の娯楽に成り下がった

「ネタ列車の写真」を披露することで鉄道オタク界の上位に立ちたい、ちやほやされたい。そのような欲求で鉄道を見つめる姿に厭気が差した。

宮脇氏の書籍を始めとする昭和初期~平成初期にかけての文章を読むと感じられる、「偏執」ともいえる鉄道への情熱。
理知と情熱を併せ持ったことばで構成される愛のこもった資料。写真1枚1枚に込められた想い。(筆者は昭和時代を全く知らないので、「昔は良かった」ではないことを明記したい)

そういったものが令和のインターネットにいる鉄道趣味者からは感じられないのだ。 単純な鉄道愛からなる偏執を披露する者も居ることに居るがあまりにも少なく、そしてそういう人に限って鉄道そのものから距離を置いてしまうか「闇」に落ちてしまうように見受けられた。

まとめると、
「ネタ列車、イベント列車を追いかけ回しその場で共同体を成しともに騒ぐ」「競争率の高い・希少性の高い列車/路線ばかりを追いかけオタクカーストの上位につこうと躍起になる」「熾烈な機材自慢とエントリー機こき下ろし、スマホカメラこき下ろし」「多くの人に注目される列車/路線にしか興味を持たないオタクのマジョリティ化」
あたりに集約される。

こういった言動を嫌うのは、最近のSNS利用者全般にみられる「カーストを意識するが故の過剰な競争意識」「自我の肥大と他者からの承認を目的とした消費行動」に厭気が差しているのもある。
良い意味での「自分本位」が失われてしまったように思えてならないのだ。

自分が本当に好きなものを、好きなだけ見つめ続ける。
そうであるが故に、昨今の「珍しいもの、希少なものを取り込みたい欲望」にどうもついて行けないのである。
文句ばかり言っていても仕方ないので、自分から距離を置くほかにないと悟った。

自分が関心を持たない存在に対しては利用者目線の介在無しに切り捨てる態度への嫌悪感

一言で言えば、「ローカル線問題」への考え方が鉄道趣味者のマジョリティとあまりにも乖離していること、である。
住民の反対意見を「マクロを見ない無知な者」と嘲笑し、「事業者/都心に住まう者/健康な人間にとっての最適なインフラ像」を押しつける。 あまりにも醜く、我慢ならなかった。
(筆者は地元が「本当に」合意しているのなら廃止を容認する立場であると主張したい)
筆者が鉄道オタクをやめたくなった最大の要因である。

地方公共交通についての具体論は語りたいことが山ほどあるが、本質ではないところで読み手の思考を止めたくはないので割愛する。
本質的なことを言えば、「住民に共感せず、強者にとっての最適を強いる態度」「都心に住み公共交通の恩恵を受けながら地方を語る非対称的な態度」「好きな車両/路線に対しては倒錯した論理をもって存続を訴えるが、そうでない車両/路線に対しては存続派を嘲うかの如く廃止を強く訴える」あたりが嫌だった。

1に共通することを言うならば、「自慢できるコンテンツ、賢ぶるコンテンツとしての鉄道趣味」で有るが故の態度であることが透けて見えるとも言えよう。

「心の膜を張ったまま地域に踏み入れる」ことの暴力性が恐ろしくなった

これは鉄道趣味というくくりではなく、むしろ「SNS界の旅行趣味クラスタ」というくくりが正確であろうと思う。
本来消費対象として設定されていないものを「モノ」化し「消費」することへの後ろめたさが微塵も感じられない言動に困り果てていた。
(観光地は自らを消費対象とすることを明言しているから許容できる)

色々インターネットの海を渡って得心したツイートがこれである。

観光地でもない場所を遠方都市圏ナンバーの自家用車(あるいはフルサイズ一眼を構えた交通機関の乗客)が走り回り、人間が住み暮らす場所を一方的に鑑賞する立場として消費し、なにかの演劇を見た後のような顔で立ち去る。
自分もこの枠から完全に外れることなどできないが、だいぶグロテスクな様相を醸し出しているのは間違いなかろう。

さらに付け加えるならば、(特に観光地でない場所において)一方的に鑑賞するなどあり得ずほとんどは住民からも鑑賞されているのだが、その鑑賞された時の言動すら鑑賞者としての立場で「昇華」する態度はさらにグロテスクさを加速させていると思う。
SNSにいる旅行オタクに対して「住民からの冷たい目」を話題にすらしない(おそらく体感していない)ことが気味悪くて仕方なかったが、言語化されるとある意味スッキリするというものだ。
干渉を受け入れていない赤の他人に対して「鑑賞」という名の干渉を暴力的に浴びせている中で、自分が干渉を受けることを厭う旅行オタクがSNSに多いことはゆゆしき問題であると思っている。
自分を限りなく透明化し、地域をモノとして見ることへの暴力性は自覚されるべきであると思う。(そして安易なネタ消費を控えられるとよりよいと思う)

自分はせめて住民からの視線を自覚し受け入れること、可能ならば近隣の市民程度の立場性をもった状態で地域に足を踏み入れることを心がけている。
観光地として確立していない地域に向かうと干渉を受けることが多いが、それを受け入れることではじめて「地に足の付けた街歩き」になるのだろうと確信している。

まとめると「相手も人間であり自分も人間であるのに、まるで自分は見えない存在であるかのように(あるいは相手をモノであるかのように)扱い一方的に論評するのは、自分の美的感覚にはそぐわない」ということである。

おわりに

このような状況ゆえに、筆者は「SNSで鉄道オタクと名乗ることを金輪際やめる」決意をし、実施した。
心の中では鉄道を愛し続け、好きな場所には敬意を持って訪問を続けるつもりだ。

昨今の鉄道趣味に思う事があった方の言語化の助けになれば幸いである。

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