差別や偏見と向き合う

前書き ~読まなくていいやつです~

「帰省できないから、母の誕生日に通販でプレゼントしたよ」

地方出身の友達からそう聞いて、「ああそういえば、誕生日プレゼントとかいう風習あったな」と思い出した。
別に斜に構えているわけではない。誕生日にプレゼントをあげるという発想がそもそもないのだ。誕生日プレゼントを親にもらったことがほとんどなかったからである。
小学校のころ、DSのソフトやカードデッキを誕生日にもらっている友達がいる中、なぜか我が家は、10歳と20歳のときだけ、誕生日プレゼントをもらえるというシステムだった。しかも、「ゲームとかじゃなくて、もう少し高尚な、例えば勉強とか将来につながるような、何か記念になるもの」という謎の縛り付きである。
結局10歳の時には、当時好きだった戦国武将についての漫画本5冊と、絵を描くことが好きだったので、人物のイラストを書くときに使うデッサン人形を貰った。どちらも記念になるどころか、実家で部屋の整理をしていたときに発見して躊躇なく処分した。
ちなみに姉もこの被害者で、10歳の誕生日は「パーティーマジックセット」という、コインやカップ、トランプを使ったマジックが一式出来るグッズという、いかにも高尚なプレゼントを貰っていた。あのしきたりは一体何だったのだろうか。
このときの後悔を胸に、20歳の誕生日はいいものを貰おうと考え、Kindleの電子書籍を買ってもらった。がしかし、この1年間あまり使われることなく、一時はどこにあるかもわからない状態だった。
そんなKindle君も、昨今の自粛事情でぼちぼち日の目を見るように。かねてより興味があったのに、なぜかあまり触れてこなかった分野の本を読むようになり、大活躍している。
今回は「偏見や差別はなぜ起こる?-心理メカニズムの解明と現象の分析」(北村英哉、唐沢稔)を読んでの感想である。今回は主に、本書の前半をメインに書いている。

1.自分は偏見の少ない人物か?

なぜ自分が差別問題に興味・関心があるのかはよく分かっていないし、積極的・主体的に差別を是正していきたいかどうかも正直まだ分からない(もちろん差別を容認する立場を取ろうという意思はないです)。
でも、この分野に興味関心があるということは、世間一般と比べれば、自分はニュートラルで差別をしない(ように意識している)人間だと思っていた。し、この分野に関心がある人はみんな自分がそうだと思っていると思う。

ただ、それが事実だろうとそうでなかろうと、意味のない領域もあるのだとか。
パトリシア・デヴァイン氏の研究で、個人の偏見の強さに関わらず、ステレオタイプの一部に接したら、本人の中のステレオタイプ全体が無意識のうちに活性化され、判断や思考に影響が出ることが分かっているらしい。

”白人の参加者に黒人を表すラベル語(例:ブラック、ニグロ)と黒人ステレオタイプと関連する語(例:バスケットボール、音楽、貧しい、怠け者)を意識できないほど短時間で呈示したうえで、人種のわからない人物の情報を読ませ、印象を判断するよう求めた。すると、黒人への偏見が弱い人であっても、強い人と同様に、対象人物を攻撃的と判断したのである。ここで重要なのは、攻撃性は黒人ステレオタイプの一つではあるが、事前に提示された後には含まれていなかったという点である。”(本書:第5章より)

黒人のステレオタイプの一部(今回はバスケ、音楽など)を意識させたら、その人の中にあるステレオタイプが活性化され、他のステレオタイプ(攻撃的)が表出してくる、ということみたい。
※ちょっと因果関係があるのか疑ってしまうような気分にもなったけど、実際の論文を読んで確かめるのは労力(主に英語力)を要するので今回はやめておきます。英語勉強しようね。

てことは、接しているときには一切差別や偏見を出さない人だとしても、頭の中にそういったイメージが少なからずグルーピングされていたら、とっさの判断とか無意識な行為とかに、差別が表れるかもしれない、ってことか。

ステレオタイプは(多かれ少なかれ)誰しもが持っている可能性があるという認識は、しっかり持っておくべきなんだろうなぁ。

でも、ステレオタイプって全部が悪いものだったっけ?
いったんステレオタイプの意味を明確にしておきます。

ステレオタイプ(英: Stereotype、仏: Stéréotype)とは、多くの人に浸透している先入観、思い込み、認識、固定観念、レッテル、偏見、差別などの類型化された観念を指す用語である。(wikipediaより)

例えば「知らない人は危ない」というステレオタイプがあるけど、これがなかったらもっと誘拐事件とか増えてるだろうし。
いちいち全部中身を知ってから頭で判断してたら、日常生活追いつかないことが多すぎる。だから無意識的に判断されることもあるわけで、役に立ってることもたくさんあるよなあと。

ステレオタイプという言葉が悪いシーンでしか使われなさ過ぎて、ステレオタイプという言葉自体に負のレッテルが貼られてますよね、これこそステレオタイプじゃんっていう。

2.ステレオタイプのメカニズム

色々書いたけど、結局
ステレオタイプを完璧に持たない、出さないことは無理!w
ということで、こればっかりは向き合っていかなきゃなんだろうなと。じゃあ向き合う上で、そもそもどうやって形成されるのかを知っておくのは必要かな、と。本書では、大きく2パターンがあると書いてましたよ。

①個々の情報から集団全体の印象が形成されていくケース(例:男性医師のドラマを見て、医師と言えば男性、というステレオタイプが生まれる;帰納的)
②その逆(自己中心的な行動を取る国があったら、その国民はみな自己中心的である、というステレオタイプが生まれる;演繹的)

また、実際に関係のないところに関係があると捉えてしまうこともあり、それを錯誤相関と言うそう。錯誤相関は、自分が珍しいと感じる属性(自分も自分の周りも持っていない、少数派の属性)が2つあるときに起こりやすいのだとか。
例えば、「日本人が、オリンピックの陸上で活躍する黒人の選手をテレビで見て、黒人(少数派の属性)は運動神経が抜群(少数派の属性)に良い」と感じやすいぞ、とのこと。確かにそうかも。

3.差別・偏見を軽減するには

ということで、差別やステレオタイプ減らすにはどうしたらよいのか。主に2つで、
①偏見やステレオタイプが行動に反映されるのを抑制する
②長期的に偏見そのものを解消する

①は短期的な対処法(抑制、軽減)、②は長期的な対処法(解消、根絶)といったところ?

で、①の方法はすごく単純。
・周囲からステレオタイプを持たないよう促してもらうこと
・思考へのステレオタイプの影響を自覚すること

「ええ…こんなもんかよ…」って感じだったけど、まぁ特に2点目とか重要なんだろうな、と。

ただし、短期的には効果があっても、長期的にはリバウンドする恐れも指摘されていた。「ステレオタイプを持つな」と意識することで、逆にステレオタイプに対して意識が向くということらしい。例えば、

「今日1日、ポディマハッタヤさんのことだけは絶対に考えないで下さい」

こんなことを言われてしまったら、逆に意識してしまう。うまく考えないようにしようとしても、ぼーっとしてるときについポディマハッタヤさんを思い出してしまうかもしれない。もし町でポディマハッタヤさんを見かけたり、冷蔵庫の中にポディマハッタヤさんがいたりでもしたら、絶対に意識してしまうだろう。




意識の自己制御を働かせるには、「手掛かり」を各自の中につくることが大事なのだそう。
どういうことかと言うと、例えば、1度失敗を意識すること。
自分は偏見が弱いと思い込んでいたとして、仕事でとある男女のコンビとミーティングをした。勝手に男性の方を上司だと思い込んでいたら、実は女性が上司だった、みたいなケースがあるとする。
このように失敗をすれば、次は絶対に失敗をしないようにと意識をするようになり、失敗を予測して回避しやすくなるらしい。

②については、接触機会を増やすというのが1つの手法なのだとか。これは接触仮説(byゴードン・オルポート)に基づいているという。
ただし、条件しだいによってはかえって偏見を助長してしまうこともあるので、以下の条件が必要らしい。
<必要な条件>
地位の対等性
協同(友好的に振る舞う必要がある➞我々と彼ら、から、彼らも我々
※ただし目標未達では好意度合いがかえって低下する
社会的・制度的支持:習慣化などにつながる
親密な接触:相手の情報量が豊富になる

そして、段階接触という手法が好ましいのだとか。
①所属集団を意識せず、個人として接触し、親密になる
②個人的な関係が確立した後は、集団成員性を明確化し、集団全体へのイメージ改善につなげる(このときに、この個人はその集団から例外的な存在だと認識すると、集団への一般化が生じなくなる)
③内集団と外集団両方を内包する大きなカテゴリーに属する仲間として認識される状態に至る(カテゴリーの上層へ)

※ここの話、めちゃくちゃ面白かったんですが、書くと止まらなくなるので、こんな感じでさらっとしておきます。他にも、拡張接触仮説(自分の知人が、他の集団と仲良くしてるのを聞いて…のパターン)や、仮想接触仮説(具体的に他の集団員を思い浮かべて、想像で接触するパターン)なども効果がある、と実証されているらしい。研究ってすげー!

こうやって、偏見への効果的な対処法みたいのが分かれば、どんどん教育の現場やビジネスの現場において導入されて行って欲しいなぁ。

4.まとめ

さっきも書いたけど、「差別・偏見をしてはいけない」と完全に否定するのではなく、「差別・偏見が起こるのであれば、その問題をいったん認めて、どう変化させていくか」が重要なのかなぁと。
ネットとかを見ていると、結構頭ごなしに「偏見はダメだ!」「偏見を無くせ!」っていう人が多いような気がする。自分の周りは、頭の柔らかい人が多いのか、あまり感じたことはないけど。

偏見なんて、どれだけ意識しても0にはならないことだと思うし、そこはもう受け入れるしかないというか。
考えてみれば自分もしょっちゅう偏見持って生活してるなぁと思いますし。僕は大阪に来てから、地元の田舎のお年寄りの足腰の強さを改めて感じています。多分畑仕事と子作りしかすることがなかったからだろうなと思ってます。これが偏見かは知りませんが。

偏見はどうしても起こる、しょうがないものだから、受け入れた方が得策じゃないかなと思います。解決策とか付き合い方とかを考えるフェーズに行けるので。コロナじゃないけど、偏見と共生するっていうのは必要だと思いました。容認、までいったらだめな気がするけど、受容くらいはOKなんじゃないかなぁ。

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