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あなたが勧めてくるならば。

人に、本をすすめる。

つい話の流れで口から出てしまう、これ絶対読んでほしい、というような言葉。これは時に、相手に変なプレッシャーをあたえかねない。絶対に読まないといけない。読んで感想を言わなきゃいけない。そう思わせてしまっては、もはや脅しに近い。新手のカツアゲだ。感想のカツアゲ。

しかし、すすめた側には当然脅している意識はなく、この本はきっとあなたのために書かれた本だ、とさえ思うこともある。いま悩んでいることのヒントがここから得られると思う。あなたのやりたいことってこういうことなんだと思う。きっとあなたにプラスになるわ!と思って本をすすめる。

たぶん、これらの気持ちはしっかりと伝わる形にしないといけないのだろうな。「とにかくおすすめだから読んでみて!」だけでは、多忙な現代を生きる人に、重いタスクを課してしまいかねない。相手の気持ちを強行突破するのではなく、納得して興味を持ってもらうまでできていないと、すすめるという行為はありがたくない。


本だけに限らず、何かをすすめる機会はいくらでもあると思う。マンガ、音楽、映画、レストラン…。

自分が、何かを勧められたとき、実際に読んでみよう!実際に見てみよう!実際に行ってみよう!と思うときは、どんなときか。最終的な決定打は「それをすすめてきたのが誰か」ということだ。他でもないあなたにすすめられたなら、ぜひ読んで、見て、行ってみよう!こう思うかどうかが、大きな分かれ道である。

この「誰か」は、本に精通しているとか、映画マニアであるとか、グルメ通であるといったことは、あまり関係がない。この「誰か」とは、簡単にいうと「自分専門家」。つまり「自分(この場合は、ぼく)が今、何に興味を持っている人間か」をよく知っている人のことだ。本や映画など、そのものに精通している人というより、自分という人間に精通している人のおすすめには、耳をかたむけたい。

本は時折、薬に例えられる。悩みを解決に導いたり、和らげてくれるという意味だからだろう。たとえば、かかりつけの病院で自分の体のことを細かく診てくれた上で処方された薬と、初めて行った病院で特に検査もせずに処方された薬だと、かかりつけの処方箋の方がなんとなく安心する。この感覚に近いのかもしれない。

きっと「自分専門家」になっている人は、いろんな方向からぼくのことを見てくれた上で、おすすめしてくれている。自分が全然見えていない悩みの本質を、この人たちには見えている。だからこそ、その言葉は重みがあるし、傾聴に値する。


先日、自分専門家といえる人から、ある映画を勧められた。『ジョジョ・ラビット』だった。見てみたら、それはそれは、もう興味深いシーンの連続だった。

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