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月組バウ"Golden Dead Schiele"感想③好きを並べる

シーレ感想3本目。
本編軸に沿って、好きな場面をひたすら並べていこうと思います。
改めてこうやって切り取ると意図的に不可思議なポーズだなやっぱりこのポスター。「右手でバランスを取ってます!」という、ナウオンでの謎のあみちゃんの軽いドヤがかわいかった。

・「序」

最初に登場する「エゴン」が、「死の幻影」@彩音星凪さんであること。
何度か見ていると、そこにまた何とも言えない味わいがあるなあと思う。
その「幻影」に、客席に背中を向けた黒の影に、ものものにかけられた覆いを次々取り払った「記録者」、本作での大枠部分を担う新聞記者にして彼のパトロン・レスラー@英かおとさんが問いかける。

「――――きみは、だれなんだ」

そして、その問いかけに呼応するように。
「死と乙女」の絵画があがり、その後方から、そのポージングをしたエゴン@彩海せらさんと、ヴァリ@白河りりさんが現れる――。

もうこの時点で、舞台上の構図があまりにも優勝していた。ゾクゾクした。大好き。
でもってこの時点で最後の話を一緒にしてしまうのだけれど、最後。エゴン・シーレが画壇に認められるところまでをタイプした、そこまでを確かに記してきたレスラーは、その「記録」をひろいあげて、一読した後に破り捨てる。
そして一言。

「僕がきみを書くなんて、おこがましかったね」

「エゴン・シーレ、最期の刻」。
そのときにレスラーが見ていたのは、死そのものとなったエゴンの姿だ。これまで確かに関係を続けてきた、パトロンと画家という関係であり続けてきたはずの相手の姿を、ある種、レスラーは見失っている、ともいえるのかもしれない。
レスラーはエゴン自身にはなりえないゆえに、決して彼のすべてを知りえない。そしてその「知りえない」ところまでのすべてを内包したエゴンが、きみを書けないとレスラーの去ったあと、最後の最後に、おおきなキャンバスから亡羊と現れ、歌う。
なぜ彼が死と成ったか。
それを知るのは、この演劇を最後まで見届けた客席のあなただけだと、そううたうかのように――。

これは、そんな物語。
なんだと私は、思っている。
転結を投げているといえば確かにそうなのだろうし、1幕ラストのとんでもない盛り上がりを体感してしまうと、この終焉は、正直ちょっと拍子抜けもする。
でも私は、なんだかこのふつりと途切れてしまってつい手を差し伸べたくなってしまう、エゴンの背中で終わる、この作劇が好きだ。
あみちゃんが、彩海せらさんが、そうやって物語を終わらせるに足る、あまりに後姿の格好良い男役さんに成長されていることも含めて。

・プロローグ

最初にあみちゃんエゴンの第一声を聞いたとき。
これまで聞いてきた彼女の歌声の確かな延長線上にありながら、明らかに声が深みも声量もいや増していて、そこに本当に驚いてしまった。

「できることならもう一度 きみを描かせてくれないか」

この「くれないか」のところの、伸ばしながらの半音の上りがすごくよい。毎度、無理やりに下から上げて当てるのではなく、きちんと自然に音をあげてきれいに響くので、本当に聞いていて心地が良いんだ…。
そして絶対こんな中高音(いわゆる女声のチェンジ領域にガチ当たりする音域)これまでのあみちゃんだったらここまできれいに揺れずに響かせられなかったと思うんだよー。万華鏡百景色で大劇場・東宝で高音ヒビカセまくってたのがここになって効いてきてる…のかいな…。
そもそも「そうやって客席に聴かせられる」という信頼と期待をもった楽曲が、第一曲目からおもいっきり彩海せらさんに宛てられていて、またそれをあみちゃんがのびのび歌いこなしているのが、すごく、すごくうれしくなってしまった初見時でありました。

で、この1曲で終わり、じゃないんだよね。再度登場したレスラーの語りで、物語がうねりだす。
クリムトの登場シーン・そこに一瞬だけ袖にハケて上着を取り換えてきたエゴンが加わって、二人で踊り出すシーンが毎回たまらない。
グスタフ・クリムト@夢奈瑠音さんと、エゴンのあざやかな対比。
動き過ぎなくらいに撥ねうごくエゴンと、すべての動きが最小限のクリムト。これからその熱を良くも悪くも舞台上で爆発させてゆくエゴンと、穏やかに、静かにおわりへむかってゆくクリムト。
クリムトから「声をかけられた」エゴンの、生き生きとした瞳の輝きがたまらないのですよ…その手を取った瞬間の、明らかにエゴンの方が入っている力が大きいであろう・それを当然のように鷹揚に受け止めて見せるクリムトの器の大きさも、二人の踊りから透けて見えるのがたいへん、よい。
本作を指して、熊倉先生はダンスの力を信じている劇作家だという感想を見かけた。
本当にその通りだと思う。歌と芝居が好きな私がつい見入ってしまう「踊り」のシーンが、本当に本作、たくさんある。

・トゥルン駅・過去

あみちゃんに子役が付いた瞬間。(何か語弊がある)
初日で彩海せらのオタクがここの少年エゴン@静音ほたるちゃんのおようふくに情緒を爆散させていて、私も実際観て「うぉいー!!」ってなった。その紺の半ズボン!白と紺のセーラー!のこども!
ど、どう、どう考えても…!

Super Voyager!のあみちゃん(当時)が完全に下敷きになってるじゃないのー!!

※このショーの「Diary~夢の宙船~」という場面で、あみちゃん(当時研2)は「当時のトップスター・望海風斗さんの幼少期」を演じています。紺の半ズボンの白セーラー着て。むちゃくちゃかわいい。
あみちゃんの雪組における「望海風斗の子役専科街道」はここから始まるのであった…。

でもって少年エゴン、ちょっとだけ時間を経てあみちゃんに変化する。
いやあみちゃんも少年やるんかい!
半ズボンの少年ホントかわいいな!!という、またもうひとつ衝撃。
しかし当然のように高らかに歌い上げるその声は、決して過去の彼女には持ちえない艶と深みを持って、あかるく、朗らかに劇場じゅうにひろがる。
あみちゃんの瞳は、ここが一番間違いなくきらきらしている。
あとそれこそ、これまでの子役専科スキルを活かして、「父」大楠てらさんと並んだ時の体格差が、目をむくほどなのホントおもしろい。
(本人は絵を理不尽に取り上げられ燃やされる1回目なので、まったくもっておもしろくはない)
でもってここで「1回目」に「父に」絵を燃やされることを、ちょっと覚えておきたい。

・ギムナジウム~「父の死」

本作はまずここの部分で展開されるように、主人公であるあみちゃんエゴンが舞台からハケず、舞台上も完全には暗転せずに「エゴンが上一枚だけ着るものを変えて」ストーリー進行が継続するパターンが複数回ある。
全部あたりまえのように「舞台上で、そのときのエゴンとして」やっていくあみちゃん、いやいやまったくもってあたりまえじゃないよねぇ???暗転って舞台上と演劇者のための感覚・感情の切り替えタイミングだよねえ???とものすごい勢いで首をかしげながら私は見ていた。
なんだろう。ここだけじゃなくてこの後も何度もあるので、もはや熊倉先生の趣味なのかもしれない。
熊倉先生の、「彩海せらならできる」という、分厚い信頼のあらわれであるのは、間違いない。
どえらい話だ。
大変興味深い。

「絵を燃やされて失意のまま、ギムナジウムに入ったエゴン。周囲とは全くそりが合わず、勉強にも一切の興味がないから、落第生。ギムナジウムの中でもひたすら絵を描き続けるエゴンは、明らかに一人浮いてしまっている」

父に絵を燃やされてから後3分くらいの舞台上での展開状況にテロップをつけるなら、たぶんこんな感じだと思う。
ちなみに明確にセリフになっているのは、「おまえはギムナジウムに入るんだ」という父親の高圧的な一言のみ。あとは全部、「上着をとられて囃し立てられているエゴン」「取り返したら生意気と思われてボコされるエゴン」「先生に見とがめられて逃げていくいじめっ子たちに、くしゃくしゃにされて地に投げ捨てられた自分の絵を唇をかんで見つめるエゴン」というところから見て取れるものだ。
この、状況説明の言葉に頼りすぎない場面展開、すごくいいなあ、と思った。
でもって同時に「♪どうして僕はここに」とあみエゴンは歌いだしてしまうので、「開始20分くらいあみちゃんほぼセリフないね!?ずっと歌ってるね!?」って、あとあと何だかおもしろくなってしまったりもした。
いやあみちゃんの歌はいくらだって聞きたいんですよ。歌がどの時代にもてんこ盛りなのは本当にうれしいことなんですよ。でも、でもさ。(笑)

・死の幻影 Ⅰ

作中でエゴンは、何度も「死の幻影」@彩音星凪さんと相対する。
相対のしかたは、その都度変わる。
その変化のしかたが、いわゆる「死の受容プロセス」に沿ったものになっているのが、とても興味深いなと思っている。
つまりはこの最初は「否認」および「自分からの隔離」だ。
全身全霊で全力拒否するエゴンに、一切表情を変えずに容赦なく感情もなく迫ってくる幻影、の対比がすばらしい。

ここで初めてエゴンが目にする、鏡の内側から現れる死の幻影は、きっと足音は立てないし一切の温度もない。
あちらがわからはこちらがわに容赦なく手を伸ばしてくるのに、こちらからの手は一切むこうには触れない。
そんな存在だろうと思わせる、人外に振り切ったそのいでたちを、存在を、作り上げた彩音さんに大拍手を送りたい…。

迫る、迫る幻影を、それでもエゴンは己からふりはらう。
「僕には これしか」
振り払った先に、父の死の報せがやってくる…。

・「どうして母さんはわかってくれないの」

ここのエゴンの、ポツリと落とすような、迷子の少年のような物言いがとても好き。
見るたびごとに、この場面のエゴンが幼くかたくなになっていくのが印象的だった。本当にちょっとしたニュアンスなんだと思うのだけれど、ここの幼稚なかたくなさが印象に残ることで2幕の「不幸な結婚式」がさらに遣る瀬無くなるという相乗効果である。
本当にエゴンって自分本位の意固地野郎なんだよなあ。まったくなあ。

・俺達は仲間

やればやるほどあみちゃんの、真ん中での発光力がマシマシになっていった場面。
かれの生涯のなかで、純粋に一番幸せで希望に満ちていたのはこの瞬間だったのかもしれない。そう思えてしまうくらい、後との対比としてずっと苦しくこだまし続けるくらい、ここの場面は誰もが笑顔で楽しそうで、ひとつにまとまって、とても全部がまぶしい。
「♪俺たちは仲間だ」と、あみエゴンが歌い出す瞬間の、ぎゅっと歌詞のピントが合うような感覚がたまらない。
あみちゃんを真ん中にして、きらきらとまとまる全体の景色が、本当に「まぶしっっ」って感じで、好き。
そしてあみちゃんは革命家ができる。絶対できる。この場面でものすごく思った。
煽動者のお役、ぜひやってほしい…民衆を駆り立て、最終的にはギロチンの下で呵々大笑で絶命して欲しい…(!?)

またここのあみエゴンとうーレスラーの絡みが最初から最後まであんまりに可愛すぎてだな。
エゴンに「レスラーさん、あなたも!」と、輝く瞳で感情を向けられた瞬間のレスラーさんの表情が、あまりにも嬉しそうで、眩いものを確かに見つけた充実感に、その仲間に少しだけ入れたような、面映ゆさも孕んだような絶妙な表情をしていて…。
椅子の上に立って堂々御高説のエゴンに拍手を向けたレスラーが、ぐっとエゴンにまんなかへ引っ張られて一緒に踊りだす、あの瞬間がかわいくて、かわいくて。

なのにそこから急転直下。

・エゴンとレオポルド

あんなに未来への希望の船出を高らかに歌い上げたかと思ったら。
次の場面で思いっきりおじさんと喧嘩してる、実は困ってるくせにとんでもない意地を張る、ここのあみちゃんの連続っぷりが本当にすごい。
前後の落差と、かれの導火線の短さ、唯一人尊敬するひと以外の言葉を素直に受け入れられないところ、すぐに粗雑に他者からの感情を蹴っ飛ばしてしまうところ、たいへんに、ものすごく良くないと思う。おまえ、ホント何なんだよ…という感覚が、あの希望に満ちた場面から、中心だったエゴンだけがそのまま連続して描かれ続けることによって、観客にもわりと容赦なく波紋する。
ガチギレしてるあみエゴンが頻繁に楽譜から逸脱していくのが大変に好きです。
本作、歌で喧嘩する場面がいっぱいあってうれしい。

・モアを描く

おじさんと喧嘩して、それでもまだ舞台上に続く彩海せらのエゴン。
たいへんに自分勝手に決別して、嘆息しながらジャケットを脱ぐ。
その仕草がたいへんサマになっていて、毎回つい全力で心のサイリウムを振ってしまう。\\キャーアミチャンカッコイー!!//
またここの座り方がものすごく不思議で、あみちゃんのさりげなくすばらしきバランス感覚が見えてしまったりする。あの決めポーズ、よくわからないのに大変サマになっていてカッコいいんだよなあ…。
あとはそれこそ、コナをかけてくるモア(当時のモデルという職業が内包していた「俗」の部分の提示)に対して、どこまでも芸術の極みをねがって瞳をきらめかすエゴンの、このことばが毎回、とてもすきだった。

「クンストシャウで見た、ムンク、ゴッホ、そしてクリムト。彼らは自分自身と向き合っていた…」

まるで自分で、自分の発した言葉に、その熱に浮かされていくような。吐息多めの、明らかに昂奮したひとの言葉の発し方。
それこそ「俗」の、「彼のミューズではない」モアが、その高尚に一切の理解を示さず「変な人」「つまらない男」とすぐに視線も意識も外していってしまうところの対比まで含めて、最高に「どこかネジのとんだ芸術家」ですっごくいい。なんて奇天烈。へんなひと。
っていう高尚の話題から、俗の極みな金銭問題にヒイヒイ言って仲間と喧嘩してという彼自身の人間としてのだめっぷりまで一気に見せられて、たいへんにぐちゃぐちゃになる、あの感覚が楽しい。
「だから彼は、彼を訪ねたのだ」
そのナレーションとともに場面が変わるところまで含めて、本当にあざやかで、もう、好きなんだよなあ。しみじみしてしまう。

・クリムトのアトリエ・白

ちがう意識構造の人間のところにきた。
そんな感覚を、観客側に一瞬で与えられるのが、舞台という総合芸術のよさだなあと思う。
美しくひびく声を幾重にも舞い連ねる場面は、本作ではここと、ラスト近くのもう一場面しかない。エゴンとは異なるもの、根底から異なる「白」。エゴンの才能そのものを表現する線描のダンサーたちは、決してここの場面のモデルの少女たちのような、あの白のドレスを纏い得ない。
いつだってきれいに音を鳴らして舞い踊る少女たちの姿を見ながら、そういう対比を、ずっと考えていた。

本作のるねクリムトは、本当にいつだって、泣きたくなるほどエゴンに(そしてヴァリに)やさしい。
やさしいがゆえに、どこかで、容赦もない。
ただ甘やかに包み込むだけではなく、そっと選択をさせてゆく、その段階へとそれぞれを引き上げてゆく、そういう立場であるという自覚のある夢奈さんの「引き」と「抑制」の、精神のひろさの伝わる演技が全編にわたって本当にすばらしかった。
ふたりきりになってからエゴンがクリムトに自分の絵を見せ、そこからふたりの語り~デュエットの流れがあたたかくて毎回好きだった。
またあの歌詞がね…もちろん「エゴンへむけたクリムトからの言葉」「それに呼応するエゴンの声」なんだけど、エゴン演じるあみちゃんへのあったかいエールみたいにも、どうしても響いてしまってね…。

「僕は見つけたい」
「君には見つけてほしい」
「自分だけの新しい世界 きっと飛べるはずさ きみ/僕なら いつか」

ふたりの呼応がものすごかった回があって、それが忘れられない。
(マチネでそこそこのマイクトラブルがあった日のソワレで、全体的にボリュームが大きめだったので、そういうご本人がた以外の部分もあったのかもしれないけれど)
そしてこの曲を聴いていても感じる、あみちゃんの「男役とのデュエットを綺麗に響かせる力」の進歩である。
あみちゃんの進化、こんなところでもやばい。

・おまえたちとはもう一緒にやれない!

どの口がなにを言って…???(笑)
ここ、最初にメンバーたちが次々エゴンについての話をしているさなか、全くなーんでもなさそうな顔で酒場に入ってくるあみエゴンの表情が毎回大変にツボすぎて大好きだった。ホントにかけらも「自分が悪いことした」なんて思ってない顔。笑ってしまう以外に観客にできることがあろうか。
でもってここで入りますね喧嘩ソングその2。1幕時点でもう「2」。
マックスが「あれが芸術だと思うか!?」と酒場の面々に問いかけ、気まずげな沈黙のみが返ってきたときの、ほんのわずかだけちらりとよぎる、傷ついたようなエゴンの表情がまた良い。ホントにずっとツンケンにとんでもなく自分勝手自分本位なことしか言ってなくて自分以外の誰を気にかけようとするそぶりもないんだけど、それでもその鋭角の輝きが激しすぎて目が離せないのだよなあ…。
やっぱり革命家やってほしい。あみちゃん。(何度も言う)

・ノイレンバッハ

赤いあみちゃんだーーー!!!!!
先行画像のあみちゃんが来たぞーーーーーー!!!(初見時)

あの先行画像が公開されてから「たのむ本編でもこの格好してくれ」と思っていた赤いあみちゃん、ここで我々にお目見え。
やはり動いていてもめちゃくちゃ似合う…。きっと着たきり雀なんだろうと察せる絵の具汚れと衣服のヨレ具合、キャッキャと汽車のおもちゃで遊びながら去っていく子どもたちに向ける視線がとてもやさしいのがツボです。
そこにやってくる、久々の、芸術のにおいのする相手。
初対面で少しの怖さを感じた彼女が、クリムトに行っておいでと背中を押されて、彼のもとへとやってくる。

ここのもうほとんど会話の終わるところ、「本当に、また、来てくれる?」の言い方が、あまりにも素直になれない「どうかまた来てくれ」で、とてもかわいい。きっとそれを読み取ってやわらかい笑顔のヴァリまで含めてかわいい。
このダボっとしたオーバーサイズの内側にシャツとベストを着ていて、場面転換のときに暗がりで脱いでベッドの上に置いてるのがまたとても好きです。二人で一緒に、「ふたりだけの世界」に行くみたいに舞台上で展開が続くの。

・「誘拐」

その穏やかな世界を結果的に木っ端微塵にしてしまう少女、タチアナ@彩姫みみちゃん。回を重ねるごとに、「助けてお願い」とエゴンにすがるあの歌が、良い意味で楽譜から逸脱して迫真になっていくのが印象的でした。
だってああいうのって、発信する側と受ける側、どちらも同じだけの感情の波がないと、「えっやりすぎじゃない?」ってどちらかがちょっとでも思ってしまうと、途端に全部ぐしゃぐしゃになってしまうものだから。
あの変化は、みみちゃんから、あみちゃんへの信頼だなあ、とずっと思っていた。
どれだけ大きな感情の波を作って歌でぶつけても、この人は絶対に受け止めてくれる。受け止めて、同じだけの強さの芝居を返してくれるのだという、役者としての、相手への信頼だなって。
そんな信頼を、下級生から向けられるような存在になってるんだなあって。しみじみ。

いや全然しみじみしてられるような場面じゃないんですけどね。
その行動の是非は別として、ここの少女に寄り添うあみエゴンの手つきの優しさがいつもとても好き。

・勾留~面会

ここのあみちゃん。
過去最高に足が長い!!(とんでもない語弊)

いや、あの白シャツに黒のスラックスという、あまりにシンプルかつものすごく被虐的な装いがあまりに大変お似合いで。ここのあみちゃん、マジで白すぎてびっくりした。別にお衣装としても完全な白じゃないのに、「しろっっっ!?」って。あまりに白すぎてバッキバキに発光しててホント衝撃だった。
面会に来たヴァリをエゴンが、完全に情緒の死んだ泥みたいな瞳で茫、と見上げているのがたまらなく好き。
最愛のひとが、自分だけのミューズが、自分の絵の才能そのものを示す抽象概念から受け取った「いつもの紙と鉛筆」をたずさえて面会に来てくれたのに、「絶対に助ける」「貴方を信じてる」と歌ってくれているのに。毎回、何回、どう見ても、そんなきれいなことばを受け取る人間の顔をここのエゴンは、していない。
それなのに紙と鉛筆を目の前に差し出された瞬間の変化があまりに一瞬で鮮烈すぎて、ほんとこいつひどいやつだな…と改めて思う。
でもきれい。すごくきれいなのだ。
紙と鉛筆を見つめるエゴンが。男役として、あまりにも、舞台上の姿がきれい。

自分のピン写でここチョイスしてくるあみちゃんのセンスよ…。
さすが自身初めての新人公演主演で、自身の死に顔の写真をチョイスしただけのことはある(壬生義士伝の新人公演舞台写真の話をしています)(後々知って爆笑してしまった事実)

・裁判

その美しさの残虐に、「彼」の発する絶望の深さに呑まれ、息も忘れるくらいの衝撃を受けたまま一幕の幕が下りる。
初日記事の写真でも出た、赤い布に、雁字搦めにされるエゴン。

芸術を否定され、自分の絵を燃やされるのに、その絶望の光景があまりに絵画的に美しいのが、本当に、ひどい。彼自身も燃やされて灰になっていってしまうように、ぱたんと彩海せらの瞳からひかりが失われる瞬間、毎回観客側の私も情緒もいっしょに死んでいる。
「何もしていないと言っているだろう!」のところから、「裁判長」絵の具に汚れた父の姿が現れた瞬間が、日を追うごとにかなしくなっていってつらかった。

「――――父さん!」

呼びかけるその声が、ほんの少しだけおさない響きを帯びる。
その瞳に、わずかだけ何かを期待したいような光がよぎる。
「父」に、認められたかった、認められずに終わってしまったものに対して。
「おまえの選択の失敗」を突きつけるものが、その自身の選択によって汚された姿をしているというのがね、またね、いいですよね…。もうとうの昔に死してこの世にいない彼の父という存在は、けれどそうやって、「かれの決して成りえない存在」として、「願っても届かなかった場所にあるもの」として、大変に印象深く、20枚の素描を焼き捨てる。
20枚。
これは言及すると、まったく状況にそぐわない笑い話になってしまうので、ちょっとここでは省略。

果たして誰にも認められることなく、「2度目」に「父」に絵を焼かれるエゴン。
その絶望に、すべてがかれへと向かって傷をつける方向に逆まく状況に、彩海せらの、エゴンの瞳から、一瞬にしてひかりがぬけおちる。
そのハイライトが失われる刹那に、毎回、本当に新鮮にゾクゾクした。ぬけおちたさきの絶望の、夜よりも深い澱んだ闇。どうしてあんなにも彼女の瞳は星のようなのだろう、それがゆえに、その光が喪われた瞬間の衝撃もまた、とてつもないものにできるのだろう。
彩海せらは、このとき、何を、どこをどう思って見ているのだろう。
その瞳があまりに印象的過ぎるがゆえに、聞ける機会があるなら、聞いてみたいなあ…あみちゃん…。

1幕感想が終わった時点で9,000字こえちゃったので、2幕以降の話はまた次に続けます。

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