パリ パリピ

「自我を超えよ」は武道のテーマのひとつです。

自我に関して考えてみましょう。

平井先生の言葉に「本当のことは死ななくてはわからない」というのがあるのですが
今回のことに関して解釈をすると、
武道で求める自我を超えた境地を知るには死ななくてはいけないということであり、

言い換えれば、
自我がなくなるのは死んだ時だということ。

自我とは、
今意識できている意識のことであり

他者から見られているという意識から発生して
そこから、世界を延長的な長さと時間で認識する意識が生まれる。

自我意識は時空認識のことでもあるということ。

時空認識とは時間と距離で世界を認識している思考様式のことで
その思考様式からくる直線的時間感覚というのは
自我意識の中にあるものということがいえて、
自我意識そのもののことともいえる。

だから、死んだらわかるという
自我意識のない死後の意識というのは

時空認識に囚われていない意識なんだろうと推測できます。

実はこの条件を満たすのは夢を観ている時だっりします。
一説には死後の意識と夢見の意識はほとんど同じらしいのです。


それが本当なら我々は
1日ごとに死んでは、生き返っているということでもありますね。

また、
死の方がベースであって
その中に生きているという意識がある。

実際は死が主なのかもしれないということ。

そうなると死ということのイメージは改変せざるをえないですね。
実際のところ、死についてのイメージは貧弱すぎる。

ということで
夢から死後の意識を推察できるんじゃないのかなってことで、
心理学者のユングさんのような夢を探索した人達がいます。

夢の探索には必ず守るべきルールがあるということで
それは「必ず同じ所に戻ってくること」というものだそうです。
なぜかというと
下手をするとその時の次元に取り込まれちゃう危険があるとのこと。
その次元から帰ってこれなくなるということは、
つまり、狂っちゃうということ。

なんで狂っちゃうことになるのか
おそらく
夢見と死後の意識がほぼ同じということは
時空認識がないということ、
時間と距離がないということ、
それは
過去や未来の区別なく時系列がなく場所や空間を限定しない意識、
パッパッパッパッと脈絡もなく現れるイメージの嵐のようなものでもあるからなのかなと。
キャパオーバーになっちゃうのかも。

思うに
分裂症、今は統合失調症といわれる症状は
このイメージの嵐に巻き込まれちゃった症状なんだろうかなと想像します。
物語が作れない、統合が出来ないという状態。
外科手術の後、まだ麻酔がかかっている時には、幻想をみたりするらしいという話からも推察されます。

自我がない状態とは
ある種のリミッターが外れた状態でもあるのかなと。
ということは自我には、
意識を不自由にする面があると同時に、
精神状態を守っているという面もあるものなのかなと考えられます。

檻のようなものなのかもしれないですね。
身を守れるけれども、不自由。

自我意識がないということの別の面は、
分離意識や悩みがないという状態といえるので
一体感(ワンネス)や解放感を感じることもあるのでしょう。
が、
それも狂気と紙一重のところがあるよということなんだろうと思うのです。

ドラッグやアルコール依存も
ワンネスや一瞥体験を求める心理からくるものという話があります。

武道の大先生の方々も死のうとするぐらい悩む経験をしていますので、

死や狂気というギリギリのところに
何かを見出だしたのかも。

芸術(武芸、アート)もしかり

そういうこともありなん。


意識の海を安全に航海するために


自我を超えるための正攻法は
意識進化の方向性と力を持つこと
知性と感性を伴って、
肉体を持ったまま死後の意識に進入すること。
そこで自己と他者が出会う。
そして、そこから再びこの世界に帰ってくること。
世界そのものとして。
創造武。

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