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2020/05/29

やぁnote。僕が新しい記事を書こうとしてこの欄に最初に表示させておく文章が「こんばんは。お体にお気をつけくださいね。」かい。それは記事の書き始めの例として出してるの?それとも僕に対する労り?

分からんけど折角だから本文に書いておこうか。これを読んでくださっている皆さんどうもこんばんは。お体にお気をつけくださいね。

それはそれとして、昨日の記事の続きは今は別にしなくて良いかなって思った。またしたい時にすりゃいい。自分でも昨日の記事を見返してたら割とグチャグチャで辛かった。でもこの感覚を味わう事こそがnoteを書き始めた理由だから、何も間違えていないのだ。

さて、今日の題材は夢。みんな夢って見るか?これ人によって全く異なる回答が返ってくるんだろうな。ちなみに僕はアホみたいに見るし、なんならそれをいちいち記録している。もう10年も。その中にはもちろん今となってはまったく思い出せないヤツもあるし、起きた時に呟いてた言葉を書いただけのメモじみた物もある。2017年6月12日の夢日記にはたった一言「国道17号線」と書いてある。これで何が分かるって言うんだ。

今晩、夢の話をしようと思ったきっかけは言うまでもなくフォロワーのこれだ。

僕と同じ日にnoteを書き始めた彼はなんと朝晩で1日2投稿している。怠惰な僕には到底ムリだね。まぁ興味が湧いたら読んでみてよ。

確かに彼から夢の話を聞くことは無いな、と思った時、それが彼に限らない事にふと気付いた。そもそも他人から夢の話をされる事ってあるだろうか。僕は異常によく夢を見るから、時々現実と混同したまま友達に喋ってしまったりする。特に小学生の頃はこれが顕著だった。そんでよく嘘つきと言われたものだ。無論、嘘も散々ついていたのだが。あぁこれは嘘じゃない。信じてくれ。

夢とは人間が睡眠中に記憶を整理する時の副産物だと聞いたことがある。様々な記憶がこんがらがる事で意味不明な物語が紡がれてしまうらしい。ただその性質上、コントロールする事だって出来そうに思える。何せ記憶の整理なんだから、記憶に何らかの手段で見たい夢の要素を刷り込ませてやれば夢を思い通りに出来る気がしないか?

事実オーストラリアのアスピーという博士は明晰夢について研究する中で、その内容の誘導についても実験などを行っている。そして彼に限らず世界中で数多の学者が夢の研究をしている。香料を用いて夢へアクセスする手段が述べられていたのも記憶に新しい。

僕にとって夢とは、その名の通りの無尽蔵な夢を湛えた広大で未知の異世界であり、僕を誘ってやまない。興味、もしくは睡魔という手段によって、僕は日々夢に関心を抱かせられる。いや僕、僕と何度も一人称単数で語りはしたが、これは決して僕に限らないだろう。もしかしたらこれを読んでいる貴方も、ひょっとしたら夢に夢を見ているのではないか?

にも関わらず、夢の話は残念ながら一般的な世間話の話題とは言い難い。取引先との当たり障りの無い会話、同胞との飲み会、修学旅行の夜、あるいはラジオ・パーソナリティー。夢の話はいずれにおいても一般的ではない。何故かと言えば、既に起きている事実に対して、夢というのはひどく共感しづらいからである。何せ僕しか、貴方しか見ていない。その夢は誰かと共有されていない。話題にしたとて、そのディテールは観測者自身の記憶と話術に大いに依存する。どんなに素晴らしい夢を見たとて、それを語れる文才が無ければ自分の中だけで終了である。

であるからこそ、僕は他人の夢の話が好きである。その人個人の記憶の絡まりの産物を、その人の語彙と感性に頼って垣間見るという行為。僕はここに旅情すら感じる。

舟を編むとはよく言ったもので、無数の言葉とはさながら大海原の様なもの。語彙力は視界で、文才は舵だ。果てしない言葉の海を渡る僕は、その途中で沢山の他の舟を見る。そしてその舟の航海日誌を覗き、まだ見ぬ遥か彼方に想いを馳せる。

夢の話、良いと思うんだ。お手軽にこんなに感傷的になれるんだぜ。自分の舟を見せるも良し、人の航海日誌を覗くも良し。そこでは日常の雑談でありがちな「共感を軸とするコミュニケーション」より数段深く、もっと根本的にお互いを分かり合えると僕は思う。

じゃ、書いてる僕もよく分からなくなってきたので潮時かな。明日は何の話をしようかな。おやすみ。

以上。2020年05月29日、25時5分。

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