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つれづれなるまゝに

私は自らの過去を振り返るのが好きだ。

といっても、直近の出来事を記録するのはあまり好きではない。日記は最たる例で、長続きしたことがほぼ無い。だから3年前に200日も継続して書いていたnoteは、言うまでもなく人生最長の、

人生最長の、思考の記録だ。

日記とは、思考の記録である。


■そこはかとなく書き付くれば

日本三大随筆の一角と評される『徒然草』。その序段は皆さんご存知であろう。

つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ。

吉田兼好作『徒然草』より


なんとなくスズリの前に座り、考えていることを書いてみる。現代においては、日記とはかなりの割合でスマートフォンを通して記録されるものだろうから、まぁ寝っ転がってテキストエディタを開いて、みたいなことだろう(風情もへったくれもない)。現にこれを書いている今、そういう姿勢にある。

随筆の、あるいは日記の、最も重要な役割。それは「心にうつりゆくよしなしごと」――すなわち思考を文字に書き起こし、保存することだと考える。


■あらまほしきこと

私は思考に限らず、記録して保存すること、そしてそれを振り返ることが全般好きだ。なのでスケジュール帳に終わった予定を後から登録することがよくある。急に思い付きで友達と会った時、帰りの電車の中で、何時から何時まで誰と会った、と登録するのだ。

勿論これは「予定」ではない。予め定まっていない。ブッキングの防止やリマインダーの利用など、予定を管理する為にスケジュール帳を使う人からすれば、無駄の一言なのかもしれない。

なぜそんなことをするのか?

行動の記録だからである。


自分がその日、何をしていたのか。人は基本的に忘れる。後から思い出したいと感じなければそれで良いのだろうが、私には過ぎていく日々が勿体無く思えてならない。

人生は有限だ。自分がこの先何回桜を見れるのか、何回お正月を迎えるのか、そういうのは大体決まっている。私は今年で22歳になった。そもそも人生に訪れる夏は多くともあと70回前後。夏祭りだの海水浴だの、そういうことを体力十分に楽しめる夏となれば、もうせいぜいあと10回とかそんなもんだ。こればかりは仕方が無い。仕方が無いが、しかし。

楽しめる回数に限りがあるものを、思い出せなくなってしまうのは勿体無い。

だから、具体的な行動を思い出す為の鍵として、過去であってもスケジュール帳にまとめるのだ。「この時、前日に友達と会ったばかりでさ――」みたいな思い出し方をするかもしれない、できるかもしれないのである。逆にこれが無ければ誇張抜きに数年前の出来事など全て思い出せなくなるのではなかろうか、それが怖いという気持ちもある。


■人ばかり久しきはなし

私は忘れられたくない。死にたくないし、例え私自身が死んでしまったら、誰かの記憶の中でせめて生きていたい。

心というものが実在するのであれば、私が思うにそれは、記憶を元に紡がれる、今この瞬間の思考のことだ。そして記憶とは、過去の行動とその時の思考の、目には見えない記録である。

行動と思考を、脳に記録すると記憶。そしてその記憶を引っ張り出し、新たな思考を生み、行動する。となれば、外部に行動と思考を保存するのは、私自身、私の心を外部に保存するに等しいと思う。その瞬間の心を、これから変わらない場所にバックアップしている。脳は変わってしまうからね。

この記事の見出しはずっと徒然草から引用している。「人ばかり久しきはなし」とは、人間ほど長生きのものはない、という意味である。そして徒然草では実はこの先、命あるものは儚いから風情があるのであって、長生きしてどうする、みたいな話になる。

や、長生きしたいよ。


引くほど長生きしたい。もうなんか何千年とか生きてみたい。しかしまぁ、現実的ではないわな。

なので色々な場所に自分をバックアップしている。

10人の脳内にそれぞれ私が10分住み着けば、寿命が100分延びるのと同等の価値があると思っている。


これを読んだあなたの脳内に、どうか私が住み着きますように。

そして、あなたの思考の記録に私が含まれますように。

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