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2020/08/11

嫌いな物の話をしても、許されるだろうか。

僕は昔から、死というのが本当に嫌いである。この世で一番嫌いと言っても良い。勿論ここで言う死とは、社会的や精神的な死のような広義のものではない。肉体的な生物としての定義から外れる、本来の死のことだ。

幸いにして、身の回りで誰かが亡くなったという経験はあまり無い。強いて言うなら曾祖母くらいのものだが、あまり関わりは深くなかっただけにハッキリとしない。不謹慎かもしれないが、通夜から納骨まで終始和やかな雰囲気だったのをよく覚えている。と言うのも、歳の離れたいとこやはとこがそこら辺を走り回っていたからだ。火葬場ではお菓子の取り合い、墓場では柄杓の奪い合いみたいになっていたし、お坊さんの経を唱える声で大泣きするチビッ子も居た。総じて、粛々とした雰囲気は微塵も無かったのである。

あるいは、人はこれを快く思わないかもしれない。一人亡くなって、それを弔う場としては不適切すぎると感じる人も少なくなかろう。だが僕はこれが不適切だとはどうしても思えない。亡くなった曾祖母も、しんみりとした空気より曾孫の賑やかな声を浴びたいだろうと思う。そんな人であり、家系なのだ。

とにもかくにも、僕の死にまつわる体験はそれぐらい。仲の良かった友人を亡くした事は、未だかつて一度もない。みんな元気に今を生きていて、嬉しい限りである。

死を知らないのに死を語るのは、ある意味ではナンセンスかもしれない。しかし僕は語れるほど死に詳しくなりたくない。ひとえに死が嫌いだからだ。知りもせずに嫌うのがどれほど危ない事なのか、それを踏まえたとて絶対に知りたくない。関わりの深い誰かを亡くす事なんか、絶対に考えたくない。

僕は登校拒否も自傷行為も否定していない。むしろそういう人と積極的に関わってきたし、信頼関係を築きあげてきたと自負している。でも僕がそれを否定しないのは、それらは生きる為の行為とも言えるからだろう。

自分が壊れてしまわないように、定期的に周囲との関わりにリミッターを設ける。僕には出来ない事だ。なにせ僕はこれが出来なかったことにより、なんとも不名誉な皆勤賞を手にしている。5年を過ぎた辺りから手放せなくなってしまった皆勤の称号は、ある時には枷となった。逃れられないのだ。そうしてズルズルと皆勤を11年も引きずってきた。

僕は、自傷行為までは個性なのだと感じる。生きる為の術だ。人によってその術が異なるのは当然の事で、それを見出だせている時点でそうでない人よりも人生を全うしている。

ただ死だけは、その括りには収められない。二度と帰ってこれない手段を、どうして生きる為の術と思えよう?

死ぬほど辛い、と言われる感覚があるのは分かる。そしてそういう人に向かって投げられる「生きろ」「死ぬな」という言葉が、どれほど軽薄で浅慮なものであるか、それも……知っている、とまでは言えないが、全く分からない訳ではない。だからと言って、じゃあ何と声を掛ければ良いのかも、僕がそういう人を救えるのかも分からない。

でも、死んでほしくないということだけは分かる。何の一般的な根拠もない、言わば僕のただの欲望ではある。死んでほしくない。死んでほしくない。本当に、ただそれだけ。

きっといつか、実際に身の回りの誰かを亡くすのだろう。その際には、この考えを改めざるを得ないのかもしれない。だからそれまでに、そういう人を(僕の為に)生きる方向へと向かわせる、生きる術を見つける手伝いをする手段を探さないとならない。これは僕の自己満足であり、ただの利己的な行動である。相手からすれば迷惑極まりなく、また僕は人の意思をねじ曲げようとするどうしようもないクズだ。それでも、である。

まだ誰も死んでほしくない。

なのに、誰がいつ死ぬのかなんて分かりはしない。そんな不安を僕の生活に植え付けてくるからこそ、僕は死が嫌いなのである。

以上。2020年8月11日、24時13分。

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