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2020/10/06

寝てた。ごめん。

一昨日、昨日と自分の過去について語った訳だけども、これを2日に分けたのは実に簡単な理由である。何と言っても、一昨日と昨日の記事の差というのは、双方を読んだ方なら嫌という程に実感させられることだろう。

自信を持って言おう。どちらにも共感できる人は、限り無く少ないハズだ。何せそうなるように書いたのだから当然の事である。

まず最も多いのは双方に共感しない人であろう。これは僕の言う偏愛をしたことがなく、誰かを一途に純粋に愛せる上に、自分という存在がハッキリと確立しており、その形成に他者を必要としない人間が当てはまる。

さて、次に多かったのは「一昨日は共感し、昨日は共感できなかった」では無かろうか?厳密には共感というか、例え概念として理解したとて経験的に語れないというケースを含む。良くも悪くも人生経験には富んでいると自負できる程の僕であるが、昨日の記事はそういった自分の特性の部分を含むから「アイデンティティ」と呟いた。

色々な人がこの2つの記事を読んで、様々な感情へと陥った事であろう。僕自身書きながらすごく複雑な気持ちだったし、記事を公開してからTwitterでもそういう反応を得た。

それこそ、昨日の記事を「自慢」と評した人が居たが、これは清々しい程に正しい。僕だって読む側の立場なら「後悔に見せかけた自慢では?」って思う。

性格はときに多面体に例えられる。彼のこういった側面が~だとかそういう使い方だ。しかし、その側面が曲面であったり、本体が球体だったりした暁には、この面はどこへ行っても転がり続ける。面と面を向かい合わせる、広い接地面を持った繋がりや関わりは、こういった人間には存在しない。

一昨日の記事も昨日のも、同じ面に存在する僕について語ったものだ。しかしそれらは乖離していて、てんで異なる人生に思える。

僕としてはむしろ、一昨日の記事の方が自慢だったと言って良い。「私は一部の人間からは共感されるんですよ」という事実になったからだ。共感性のある文章を書ける、それを書くに足りる人生経験があるのだ、と。

確かにそれは書ける。一昨日の記事だけであれば自慢で終わったのだ。だが僕は翌日にも記事を書いた。そしてこちらは(特に一昨日に共感して次を読んだ人にとっては)ハイ共感、とも行かない内容だった。まさしく僕の性格の曲面部が、相手の性格の上を転がった。

力を込めれば込める程転がってしまう。誰かと親密になっても、どこかのタイミングでもっと近付こうとして、そこから滑ってしまう。それが僕の築く人間関係なのだった。

じゃあ昨日の記事に書いた人物とはどうして滑っていないのか?と疑問に思うかもしれないが、それは僕が自分の曲面に気付いて力を込めないようにしているからである。下手な近付き方をして今の距離感が壊れてほしくないから、転がってしまう前に力を抜く。

その昔、僕の事を「太陽みたい」と言ってくれた人が居た。話してて温かな気持ちになるんだ、と言う凛とした静かな声を聴いて、月みたいな人だなと思った。

でも。本当の僕は太陽みたいに暖かくないし、大きくないし、明るくない。

親密になろうとするほど滑ってしまう。僕という人間の全てに共感できる人はどう考えたって存在しない。さながら、一時話題となった小惑星探査機「はやぶさ2」の訪れたリュウグウという星のように、遠くて、歪で、着陸しにくく、宙を浮いている訳だ。

もしかしたら僕の内側には、もっと他人にとって有益な情報や発見が秘められているのかもしれない。僕の内面をしっかりと見に来てくれる人が居るのであれば、日の目を見る。

居なければ?

居なかったら、どうするのだ。JAXAが見つけてくれる訳でもない。物好きな人が、僕の内面を一心に見ようと努力しない限り、これはもう一生秘められたまま終わるのだ。

僕はそれが怖い。


一連の記事を読んでくれてありがとう。この3日間の記事は、嘘偽りの無い気持ちだ。これらを読んで少しでも複雑な感情、ネガティブな気分になったなら、これからも僕と関わっている限りそうなる可能性がある。あまり僕に近付くと、いつか滑ってしまうかもよ。

以上。2020年10月6日、24時53分。

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