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2020/10/05

昨晩の記事「偏愛観」。

これがまぁ、それなりに反応を貰ったので僕としては嬉しい。意外とこういう境遇にいる人間というのは少なくないものなんだなぁ。

さて、「偏愛観」に共感してくれる人もそうでない人も問わず、僕は今日読者諸志に一つの問い掛けをしてみたい。

ありのままの貴方を受け入れてくれて、かつ貴方と積極的に関わりたいと考えてくれている人物が、貴方の回りには居るか?

居ない場合、欲しいか?


ちなみに僕はめちゃくちゃ欲しい。いや、後者の質問に答えるのは間違えているか。僕は前者の問いに対して肯定するべきなのだから、であれば後者の問いは不必要だ。

そう、居るのだ。それほど都合の良い人物というのが、しかも複数人。僕が自分の事を「人間関係に恵まれている」と思っている根拠の一つはこれと言って良い。

居るもんだから、残念ながら居ない人の気持ちはよく分からない。よく分からないからわざわざ問い掛けている訳である。欲しい?

もちろん、そういう人間は降ってくるのでも生えてくるのでも無い。偶然の産物によって得られるような代物では無いのだ。つまり、そういう存在を求めるのであれば、それ相応の行動を起こさなければならない。

僕にとっては中学の頃がそうだった。「偏愛観」で述べた通り、当時の僕は言わば告白魔だった訳だが、そんな中でも告白などとはまた別に関わりを持っていた女子は常に居たし、寧ろ男子の友達よりも多かった。

人によって、無条件に自分を認めてくれる存在に求める物は異なるだろう。男性であってほしいのか、はたまた女性なのか。気性の荒いのが良いのか、引っ込み思案を好むのか。自分より容姿が良いか、悪いか。

あくまでも僕の個人的な意見だが、僕にとってのそういう人は僕より上の女性であって欲しい。容姿が良くて、性格はまぁ僕とどっこいどっこいな程度の女性。だって仲良くするなら自分よりは上の層が良いじゃない。

ありがたいことにそういう人物が僕には居たから、少しそれに甘えて生きてきたのかもしれない。それを否定することは出来ない。

そしてそうして生きてきた今、僕は自己肯定感の塊のような人間として今ここに居るが、これだって紛れもなく彼女のおかげだ。

人は人との関わりの中に、初めて自分というのを見出だすだろう。自分1人であれば、他者と自らを区別する必要は無いから。だから僕という人間の形成に、「都合の良い人物に甘えてきた」という要素は欠かせない。

自らを定義付け語る為に、他者の評価を待つ。一度この流れが出来てしまえば、あとは緩やかに終わっていくだけである。自らを他人に求めていくうちに本来の自らは薄れいき、最終的には限りなく消えてしまう。

だから問う。

ありのままの貴方を受け入れてくれて、かつ貴方と積極的に関わりたいと考えてくれている人物が、貴方の回りには居るか?

居ない場合、欲しいか?


それはもしかしたら、貴方のアイデンティティを崩壊させるかもしれないし、貴方を何かに依存させてしまうかもしれない。

なんかまとまらなくなってきたので、そのうち気が向いたら続きを語るかもしれない。

以上。2020年10月5日、24時38分。

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