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人蟲(改訂版)1

2012年9月。


この年はひときわ残暑が厳しい秋であった。


アスファルトから照り返す地熱は、湿気と熱気を伴い、立っているだけでも全身から汗が吹き出す。


民谷伊一郎は流れ出る汗を何度もハンカチで拭った。


「雨降りそうだな…。」


伊一郎は空を見上げて小さく呟いた。


天気予報では夕刻から雨の予報が出ていた。


午前中の晴天に気を許して折りたたみ傘を持ってくるのを忘れてしまっていたことを今更ながら思い出し伊一郎は溜息をついた。

人生とはそんなものだ。

伊一郎は苦笑する。

良い時にかこつけて備えを忘れれば必ずしっぺ返しを喰らい、そのときは反省するのだが、しばらくするとその失敗を忘れまた同じことを繰り返す。なんとも滑稽ではあるが、それが人というものであり、その愚かさゆえに人は人であるのだ。

その程度の愚かさがない人間には魅力などないだろう。

伊一郎はそう思う。

いや。

というよりそう思うことで自分の失敗を正当化し、そんな自分をおかしく思いながらもなんとか雨にあわず逃げ切りたい。そう祈りながら歩いている。


それにしても

伊一郎は息を吐いた。その呼気までがまるで湯気のようだ。


もう夕方の18時だというのに熱気は冷めない。

夏の最後のあがきのような熱気と湿気が一層、不快感を増大させていた。


「まいったな。」


伊一郎は立ち止まり、額の汗を拭い、ネクタイを緩めた。

噴き出る汗でワイシャツの襟元がぐっしょりと濡れている。


空を見上げると、流れる黒い雲が次第に上空を覆い尽くすようにひろがりはじめている。


急がなければ・・


伊一郎は四ツ谷三丁目から足早に信濃町に向かっていた。

打ち合わせから渋谷の職場に戻るためJR総武線の信濃町駅が最寄りの駅だったためである。地下鉄で四谷まで出る方法もあったが、四ツ谷三丁目の交差点から信濃町までは歩けば10分ほどだ。節約家の伊一郎は無駄な経費を使うよりも自分の足を使う方を選ぶ。それはこの青年いつもの思考回路であった。常に効率を考えてしまう。


汗をぬぐったハンカチをポケットにしまい再び歩きだした。


伊一郎は180センチを越える長身。


細身で筋肉質の引き締まった身体。長い足はまるでモデルのようだ。

濃紺のスーツをセンスよく着こなし、彫りの深い整った顔立ちにやや色素の薄い茶色い瞳が印象的である。

髪はやや長く、瞳と同じように、やや茶色がかっており、サイドで軽くウェイブし上品にまとめている。本人にその意識はないが世間的には十二分に美男子の分類に入るだろう。


顔立ちだけではなく、姿勢の良さも伊一郎の男ぶりを際立たせている要因だ。

大股で歩く姿は背中がピンと張り、日本人らしからぬ颯爽とした印象を与え、品の良さを感じさせる。

あえて難点を挙げるとすれば眉間に刻まれた皺が、この美しい青年の神経質さを物語っているくらいだろうか。


とはいえ

それも、気になるほどのものではないが。



ふいに



雷鳴が鳴った。

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