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吉祥寺

 吉祥寺ブックマンションの一つの棚主に、ひょんな事からなった。棚の名前は遠雷BOOKS。月々賃料を払って、小さな棚に好きな本を置いて売って良いというシステムのお店。

 僕は元々、歯科技工士という自営業を16年間やっている。こちらは生活のために続けているわけだが、ブックマンションでは好きな本を並べて遊んでいるという事になる。
新しい職種を間借りとはいえ始めると、いろいろな発見が自分のなかで起きる。

 まず街の中の本屋さん。古本屋に限らず様々な本屋さんの見方が変わった。商売で本屋をやっているプロたちには、当然敵わない。すごいなあと感心するばかり。きれいな本がスタイリッシュに置かれている。質と量においても圧倒的だ。
 
 僕が借りているあの小さな棚で何ができるか。まだまだ試行錯誤中だけれど(現時点では店番すらやってません)、好きな保坂和志さんや、こだま和文さん関連の本を並べてみようと思う。あと吉祥寺に関連する本も並べたいな。

 吉祥寺は平日に遊びに行くことが多い。近所ではあるのだけれど、休日は人が多すぎてどうも苦手だ、歩くのもやっとなくらい混み合っている。4才児と8才児を連れて歩くには、何かと不便を感じる。
昔はもう少し鷹揚で余裕のある街だったように思うのだけれど、時代の流れというものなのだろうか。

 祖父母も吉祥寺に住んでいたので、幼少の頃に横浜から遊びに来た時に、井の頭公園に行っていたのを覚えている。兄と従兄弟たちと池で釣りをしたような記憶がある。象のはなこさんにも出会っている。
毎年、正月になると第一ホテルに入っていた樓外樓という中華料理屋さんで親戚一同集まるのが慣習になっていた。
小学生の頃の自分は、叔父さん叔母さん達が酒を飲み楽しそうに談笑しているのを観察していた。内容は社会情勢のことや、自分たちの分野の話や、子どもたちの話や、まあワイワイ晴れの日を楽しむ祝祭だったわけだけれど、祖父母はそれを眺めながら満足そうにしていたと思う。口数の少ない祖父だったけれど、聡明な人だった。

 祖父は6カ国もの言語を喋れた。トーメンという商社に務め世界中を飛び回り、交渉をして、現地工場で指揮を取った。戦後の高度経済成長期のなかで仕事をした人だ。
父はコンピューターのエンジニア、お姉さんはピアノとバンジョーを弾くミュージシャン(旦那さんはトランペッター、詳しくは私の棚に関連本が置いてあるので探してみて下さい)。父の弟は昆虫学者。そんな子供たちを眺めながらの正月は、祖父にとっては楽しい時間だっただろう。

 そんな祖父が晩年、東急百貨店の横の道で強風に煽られて倒れた。奇しくもブックマンションのある側でだ。正確には、百年という古本屋の前あたり。
90代の祖父は、大腿骨を折ってしまい、秀島病院(今は吉祥寺南病院)に入院した。その2年前に祖母を亡くしていて、一人で暮らしていた2003年の春の出来事。 吉祥寺に一人で買い物に来ていたのだろう。

 僕は当時、国分寺に一人で住んでいたのでよくお見舞いに行っていた。歯科技工士としては、まだ修行中の期間。
秀島病院には3ヶ月位お世話になり、その後父の住む横浜の病院へ転院する事になった。転院するその日に
「横浜に行ってしまうと、武蔵野から離れてしまうけれどいいの?」と聞いた。
「なんの未練もないよ」
と笑いながら祖父は言った。
僕は、祖父らしいなと思ったけれど、60年近く住んだこの地を、自分で気に入って選んで住んだこの地を、叔父さん叔母さん、父達を育てたこの地を、この一言で断ち切った姿はかっこよいと思った。

その後祖父は退院して、横浜にある老人ホームで悠々自適に過ごし、老衰で亡くなった。享年98才。この老人ホームにもよく通ったが、紳士でおしゃれな祖父はスタッフの方々にも人気があった。

 話は吉祥寺に戻ります。
今回一時的とはいえ、この場所で活動をする事の意義を自分なりに考えて、遊んでみたいと思います。

 

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