神奈川の地名が東京に略奪されたとある歴史について

インボイス制度下に於いて免税事業者や一般消費者から販売用の建物を仕入れた場合でも、仕入税額控除は全額取っていいという事を今日知りました。いやー非常な朗報ですね。ほんまに。

ということで本題です。タイトルを見てまーた町田は神奈川の話かとお思いになった方もいるかと思いますが、今回は違います。いやまあ町田も十分すぎる程忌々しき話題なのですが、今回はその町田に勝るとも劣らないお話で、ズバリ二子玉川という地名についてです。
因みにこの話は東京都民どころか当の神奈川県民ですら知る人がかなり少ないお話です。事実を知る者として啓蒙の義務があるので、記事にさせて頂きました。

23区内の中で最も人口が多い世田谷区の中でも区を代表すると言っても過言ではないネームバリューで、関東に住んでいる人なら知らない人はほぼいないでしょう。関東外の方でもニコタマの略称を出せば聞いたことある方も多いと思います。

この二子玉川という地名ですが、見た通り、二子と玉川を合わせて出来た地名です。この内、玉川は紛れもなく世田谷区の地名ですが、問題は二子の方です。

この二子という地名は何と世田谷区どころか東京都の地名ですらなく、隣の川崎市高津区の地名なのです。
二子(ふたご)は、神奈川県川崎市高津区の地名である。現行行政地名は二子1丁目から二子6丁目。住居表示実施済み区域(Wikipedia引用)
何ならふたこですらなく、ふた「ご」なんですね。

事実、二子玉川駅を通る田園都市線には隣に二子新地駅があり、ここは既に川崎市です。

では何故二子玉川が多摩川を隔てた川崎市から地名を借りパクしてきたかというと、説明するには二子新地周辺の歴史を遡る必要があります。

江戸時代当時の多摩川には今の様に橋が無く、舟での往来をしていた訳ですが、二子新地は江戸を出て多摩川を渡り今の神奈川県に入った時の最初の宿場町でした(渡し場なんて言ったりしますね)。それに加え、当時の多摩川は暴れ川とも呼ばれており、その水嵩によっては往来できない日が何日も続き、周辺での逗留を余儀なくされる事態も頻発していました。こういったことがあり、二子新地の界隈は宿場町として当時から人の往来がそれなりに多い土地柄でした。

この状況に対して更にこの界隈に変化が齎されたのが1923年の関東大震災です。首都の東京の復興に当たり当然物資が必要な訳ですが、被害の中心の東京で自力で賄える訳もなく、かといって先にお話しした通り多摩川には橋が無く、他県から物資を運び入れるにもあまりにも非効率な状態。これを解消するべく、1925年に架橋されたのが二子橋なのです。(因みに橋がこの時代まで無かったのは、江戸幕府が江戸の守りをより堅固なものにするべく、架橋を禁止していたことによります。)

この架橋により、以前にも増して人の往来が盛んになった二子新地の界隈は三業地としての許可を得、また大貫吉之丞という人物が中心となり吉原や向島の業者の誘致を積極的に行った結果、国内屈指の歓楽街、花街として更なる盛況を見せることになります。戦前の最盛期には、100名程の芸者がこの界隈で働いていたという記録もあるほど。
二子新地の「新地」ですが、新しく拓かれた土地という文字通りの意味だけでなく、遊郭といった施設が多い、歓楽街や花街といった意味も含まれており、二子新地の場合は後者の意味でつけられたわけです。時代が進むに連れ、遊郭自体が消滅していき、今でこそ地味な位置づけになっている二子新地ですが、当時はそれ相応の盛り上がりを見せていたことが地名から伺えるわけですね。


二子神社祭礼の様子を写した当時の写真

ここまで歴史を説明したところで本題に入りますが、二子玉川の二子は、東京都側にはない地名にも拘わらず、ここまで述べてきた二子新地の隆盛に肖って付けられたわけですね。
ここまでは別にいいです。二子新地がそれ相応に賑わっていたという歴史を伺い知ることが出来るのは神奈川県民としては悪い気持ちはしないので。
問題は二子玉川側があくまで二子も玉川も恰も最初から自分たちの持つ地名であるかの如く我が物顔でのさばっていることです。挙句の果てにはニコタマだなどという略称で持て囃される始末。違う場所から借りてきたのであれば、その歴史を自分たちから説明することが人としての道理に適っている筈なのですが、首都でさえあれば周辺に何をしても良いと勘違いでもしたのか、彼らにそんな気配は1Åもありません。
以前とある番組で二子新地を特集しており、じゃない方の二子というキャッチコピーで紹介されていましたが、上記の経緯を理解している者からすれば、我が物顔で二子を使ってるお前こそ二子じゃねえだろって話なんですよね。

私が町田は神奈川と繰り返し主張する理由は、そもそも町田は以前は神奈川の管轄だったという歴史的経緯や、あの県境の不自然さという町田自体の持つ特性もありますが、神奈川の地名を東京に我が物顔で消費されたという二子新地の歴史を知っているからという所も実はあります。
そして厄介なことに、世田谷区がこの説明を碌にしていないということもあり、先述の通り東京都民どころか神奈川県民ですらこの歴史を知っている人は体感かなり少ないです。なので、この歪んだ事実を矯正する為には先ず当の神奈川県民にこの歴史を少しでも浸透させなければならないんですよね。私のツイッタのフォロワーならまーた枝豆がなんか言ってるという気分に一度や二度なったこともあるかと思いますが、こういう背景があることを解ってくださると幸いです。

纏めると、同じ東京都の中でも蒲田の界隈は好きです。以上です。

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