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この面倒くさい娯楽に花束を

『ぱちんこは娯楽』。ギャンブルではなく娯楽として大衆に受け入れられている文化であることを主張する、業界にとっては耳馴染みのあるフレーズである。 
 
 
 
今から遡ること約70年ほど前に今のぱちんこの原型が登場し、そこから進化を重ね、最盛期には全国に4万5000軒以上が林立したそうな。現在約9000店舗ということを考えると、いかにとんでもない軒数かが窺える。 
 
 
 
もちろん、ホールが大型化していく以前の話なので、店舗当たりの設置台数は比較にならないほど少ないのは明白だが、それくらい『町のぱちんこ屋さん』が軒を連ねたことが容易に想像できる。 
 
 
 
ぱちんこ熱が席巻する頃、『親指族』なる言葉が、ぱちんこ熱に浮かれる人々を皮肉った言葉として流行語となるほどだった。 
※ 昭和20年代後半に玉の射出が連発式になる以前の話 
 
 
 
それくらいぱちんこが大衆化し、多くの人々を魅了し始めていた。と、同時に、そんな娯楽を愛してやまない人々を、どこか蔑んだ目で見る人も現れていたのであろう。 
 
 
 
そんな誕生から70年ほどの歳月を経て、ぱちんこ屋の存在の仕方も大きく変わった。 
 
 
 
ぱちんこは便利な時代になったのだ。 
 
 
 
ガタガタだった板張りの床、和式のトイレ、昭和感あふれるネオン、呼び込みマイク…いわゆる昔ながらと呼ばれるそのほとんどのものが姿を消した。 
 
 
 
 
カウンターまで行き玉やメダルを借りていた時代から、共用サンドが登場し各台サンドが定着。金種も、ぱちんこなら500円玉、スロットでは千円札が当たり前だった時代から、全金種対応がスタンダードになっている。 
 
 
 
パーソナル化も進んだ。スロットよりはぱちんこ、20円4円よりは低貸。人件費の削減には大きく貢献している。 
 
 
設備面ではなく、遊技台そのものも進化した。一発一発打っていた時代から、今では自動化した連発式が当たり前で、2015年にCR昭和物語が数十年ぶりに手打ち式を搭載して登場して以降、手打ち式は見ていない。これもアウトが稼げる自動化による売り上げ貢献の功績は大きいと思われる。 
 
 
 
今まであった色んな不便、不満、無駄、労力が、様々な技術の登場で解消された。 
 
 
 
そう、ぱちんこは便利な時代になったのだ。 
 
 
 
そんな中、近場の昔ながらのお店の一角に目が留まった。1円ぱちんこコーナーである。 
 
 
 
ゴールデンウィーク、平常営業よりも年配層であふれており、通路にはいくつものドル箱が敷き詰められていた。 
 
 
 
「みんな持ち玉遊技で、低貸でこんなに出して、店は利益取れとんかな?」 
 
 
 
そう思った矢先、自分の感覚にハッとした。 
 
 
 
気が付けば何ら確証のない『出玉感』という見た目だけの雰囲気に心躍らされていた。 
 
 
 
パーソナルを導入していない店舗は近場では少なくなっていて新鮮だった 
 
 
 
「でも実際に出玉があるだけでここまで賑わって見えるんだな」 
 
 
 
大当たりの度にスタッフを呼び、いっぱいになったドル箱を下げてもらう人もいれば、積みあがったドル箱を手元へ戻してもらう人もいる。パーソナルならこんな事は不要。 
 
 
 
ただでさえ古い狭い店舗なので、客側が上体をずらしてスタッフをよけないと、箱の上げ下げもままならないようだった。 
 
 
 
手元に目を向けると、打つたびに減っていく上皿の玉を、その都度ドル箱に手を突っ込み玉を握りしめて再び上皿へ玉を送っている人もいる。パーソナルなら客側のこの作業の負担も抑えられたのだろう。 
 
 
 
でもふと思った。 
 
 
 
それでもここにいる人たちはこの店を選んできている。 
 
 
 
パーソナルじゃない事による出玉感の演出に釣られた人もいるだろう。 
 
 
 
だが、それだけではないと思った。 
 
 
 
大当たりで箱がいっぱいになって下してもらう行為、上皿が空になって箱から玉を送る行為。それら全てが楽しむためのスパイスであり、それら込みでぱちんこと思えている人たちが集まっているんだと。 
 
 
 
確かに人によっては面倒くさい行為ではあるが、ある人にとっては、それこそがぱちんこであり、それこそが娯楽なのであろうと。 
 
 
 
確かにそうだ。考えてみれば面倒くさい事こそ娯楽だった。 
 
 
 
キャンプを引き合いに出してみよう。 
 
 
 
知り合いと食材を持ち寄って遠方へ向かい、一から準備をして調理をし、食べ終わったらご丁寧に自分たちで片付けまでして帰る。 
 
 
 
面倒くさい以外の何物でもない。近くのレストランで時間に余裕をもって快適な空間で美味しいものを食べたほうが手間も時間もかからない。 
 
 
 
だが、それがいい。 
 
 
 
この面倒くさい作業こそが楽しいのである。 
 
 
 
現実社会から逃避して田舎への旅行をする人もいる。 
(コロナ渦で直近の例えではない) 
 
 
 
コンビニもなければ街灯もない。車も通れるような道じゃなかったり、なんならスマホも圏外。便利の反対を集めたみたいな場所に、好き好んで笑顔でやってくる。 
 
 
 
面倒くさいことを楽しみに来ているからだ。 
 
 
 
そう、思い返してみれば、娯楽ってやつはいつだって面倒くさい。 
 
 
 
面倒くさいことに時間を奪われることこそが、楽しい時間を過ごせている証なのだ。それくらい熱中できている裏付けなのだ。 
 
 
 
ぱちんこは便利な時代になったのだ。 
 
 
 
ぱちんこ屋のサンド登場にはこんな逸話がある。 
 
 
 
ある会社員が上司の誘いを受けてぱちんこ屋に連れてこられた。 
 
 
 
まだサンドもない時代だったので、メダルや玉を消費する度にカウンターへ足を運び、再び貸玉を手にして遊技台へ戻る。これを繰り返していた。 
 
 
 
連れてこられた会社員はぱちんこが大して好きではなかった為、この行為が苦痛で仕方なかった。 
 
 
 
一方誘った側の上司は、それを苦痛に感じていなかった。熱中し、その行為すらも楽しめていたからだ。 
 
 
 
連れてこられた会社員はこの作業の不毛さに疑問を持ち、後の台間サンドの生みの親となったのだった。 
 
 
 
面倒くさい事が楽しめればそれは娯楽であり、面倒くさい事が苦痛であれば、それは技術の進歩への糸口になる。 
 
 
 
サンドの登場もアウトが稼げる要因になることから、ぱちんこ屋の売り上げ貢献度は高いだろう。 
 
 
 
だが、 
 
 
 
『ぱちんこは娯楽』。ギャンブルではなく娯楽として大衆に受け入れられている文化であることを主張する、業界にとっては耳馴染みのあるフレーズである。 
 
 
 
ぱちんこは便利な時代になったのだ。 
 
 
 
残念ながら便利な時代になってしまったのだ。 
 
 
 
面倒くさい事を楽しむ時間を気が付けば失い、勝ち負けに特化した時間の費やし方になってはいないだろうか? 
 
 
 
ぱちんこは娯楽。面倒くさいぱちんこを楽しもう。 
 
 
 
あの頃の、面倒くさい娯楽という時間の過ごし方をもう一度。 
 
 
 
そしてそう思わせてくれたこの面倒くさい娯楽に花束を。 

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