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無邪気なQちゃん困ったAさん


答えに窮する問いがある。
考え出せば泉のように湧き出ることだろう。
なんならば僕は答えを用意できる問いのが少ない。

お勉強が大の苦手な劣等生だった僕は、学生の頃に、次々と放り投げれる問いに狼狽、困窮し、求められている答えを用意することができず膝を震わせながら白旗をあげることがたくさんあった。
僕の島にはそれはもう、そこたらじゅうに旗がそよそよとはためいていたのだ。
もう勘弁してくださいましと何度思ったことか。
しかし、これは何もお勉強に限った話ではない。

雑誌だったりデジタル記事での取材をしてもらうことがあるのだが、満足のいく答えを出せないことが多い。
自作したうたに対して、「これはどんな曲ですか?」と問われても、答えている内に小さなズレが生じて、結果的にちくはぐな答えになり的を得ていない。なんてことが多々ある。(せっかく聴いてくれたインタビュアーの方に申し訳なくなるくらいです)
僕は、ぼんやりと見て考えているため、人より解像度が著しく低いのだろうと思う。
自分で生み出したものですからよく分からないでいるのだ。ある程度出来た曲を編曲するためにサポートミュージシャンに渡し、譜面におこしてもらってはじめて、どう設計されているのかを理解するということもある。
うたの場合は、ぼんやりを楽しんでいるという節もあるので、ここで追究するのは避ける(逃げる)ことにする。

これは多少毛色が違う話になるかもしれないけれど、日常生活の何気ない会話にも答えに窮する問いは潜んでいる。

先日、夜中にドラッグストアに入ったところ、店員さんから「こんばんわ」と明るい声をかけられた。
この場合僕は、「どうも、こんばんわ」と帽子をとって軽い会釈の一つでもするのが礼儀だろう。
だけれど、僕はその一言が言えずに無視してしまったのだ。
何故だか店内だと、挨拶をするのを躊躇ってしまう。これが個人で商いをしている薬屋なら違ってくるのかもしれないが、、。
たぬきと夜道にばったり会って、ご機嫌ようと言われたって、挨拶できる。しかしあの時は出来なかった。

これはそもそも答えるべき類のものなのか。
しかし「無視」をすることがコミュニケーションとして最適解であることは、少々考えづらいと、棚に置いてある、体に塗りたくるクリイムを物色しながら悶々と考えていた。


これを書いていて思い出した。
これは「問い」に対しての答えではないのだが、困るものがまだある。
気心の知れた友人宅に遊びに行く時の、インターホンを押して家人を呼び出す際の答えだ。
(もう一つ状況説明を加えると、電話などで前もって連絡は済ませて、もう到着してある旨も伝えてある時だ。)
友人から、はい〜と応答があった場合に、何というのが正解なのだろう。
あらためて、友人に名前を告げるのがなんだか小っ恥ずかしい気もするし、「来たよ〜」と声を明るめて言うのも性に合わない。
「あけて〜」というのもなんだかなと思う。
電話じゃないんだから、「もしもし」もそぐわない気がする。まさに答えに窮するのだ。



そして久方ぶりに会った人から、「元気?」
と聞かれるのも得意でない。











追記

先日 夜間飛行という曲を配信リリース致しました。聴いてもらいたい曲がまた一つ増えました。

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