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いけっ、とまれっ

窓から見えるは絶えず行ったり来たりする赤いお尻に、白いおめめをした自動車たち、自転車の群れ。
ここでは歩くことが許されていないのではないかと訝ってしまうほどに通りを歩く人が見当たらない、、と思った矢先に仲睦まじく手を取り合って歩く若い男女が通り過ぎた。そりゃそうだ、僕はここまで歩いてきたんだもの。
其の二人を目で追う。当然二人は僕が見ていることに気づいておらず、楽しそうに話をしている。
そして僕が座っている隣の席にも若い男女二人がいて、ストローを噛むのって欲求不満の証なんだよって男の方が早口で言う。この男は聞いている限り、せっかちなのか時間に追われているのか、飯を食うのも話すのも急かせかとしていて落ち着かない。対して女の方は男の話を聞いているのか聞いていないのか判然としない曖昧な相槌をうつ。窓際に座る僕は左から聞こえて来る、ちぐはぐな彼らの会話を小耳に挟みながら往来を眺めてかれこれ三分。きっかり、、と思う。たぶん。さだめし、きっと。

彼は「ちゃっとじぃでぃぴぃ」と先程から仕切りに鼻を膨らませながら言っている。ストローを噛む話と其れは何か関係あるんだろうか。
「このままだと人間は機械に支配されてしまう、やばいよ」ふむふむ、それもあるかもしらん。
機械に質問すると会話形式で答えてくれるというやつで、僕のお耳にも届いているのだから、世間にだいぶ浸透しているのだろう。
人間が人間を統率するのと、非人間が人間を統率するのはどちらが幸せなんでしょうね。
生まれた時に、自分の個体判別が為され、そのデータをもとに人生設計が算出されて、それ通りに生きれば大過なく、一生安泰。そうなったならば、みんな納得できるのかしら。
そう生きるのも一つの手かなと思わないでもないが、親の言いなり生きる事に釈然としないのと同じように、いやそれ以上に反発がありそうなものだけれど一度適応してしまえばとても楽ちんな事かもしれない。これは隣の男が言ってるんでなくて僕が思うことだ。
然しながらネット上にある情報を糧に生きるスタイルも、非人間に統率されながら生きることに片足突っ込んでるとも言えなくもない(これも僕が思っていることである)
お外には、赤になったり青になったりして、往来を支配しているのは信号機で、人間ではない。これにいさくさ言う人間は僕が窓を眺めはじめてからというものの現れず、みんなきちんと従っている。これは人間の不幸といえるかしら。男女は信号機に行ってよし、の命令を下されるのを、幸せそうに待っている。
思えば、よくあんな三色団子のような鉄の塊に行けだの止まれだの命令されて反乱がよく起きないものだなあと不思議な心地になる。
信号は守りましょうと小さい頃から習っていただけあって、みんな言いつけを遵守しておる。しかし、ちゃっとじいでぃぴぃは習っていない。これからの子供たちはどうだろう?
「えーあい」の言うことは守りましょうね、そうやって教わるのだろうか。

今度海いこうぜえ、夜お前ん家おしかけてさらいに行くわあ。そうやって息巻いていた兄ちゃんが試験に落っこちたのを免許証センターで居合わせてさ、笑い堪えるの必死だったわあ。
いつのまにか彼の話は免許証センターの話になっている。外を見ると日が暮れて、先程いた男女の番も、自動車の群れも、自転車も無かった。

いや、とっくに街にはあかりが灯されていた。夜ははじめっから其処にあった。
三色の光がいっそう鮮やかだ。



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