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個性を少々、没個性を大さじ一杯

「幸福は一種類しかないが、不幸は千差万別である」トルストイはそう指摘している

らしい、、、。
(僕はトルストイがどのような人物なのかも、彼の作り上げた作品がどんなものなのかも、何一つしらないのだけれど)

彼が大昔に考えたことは、おおむねあってるんでないかしら。
街は高度化、都市化が進むにつれて画一化されて、個性が失われていくなあと考えたことがあった。それは何故なんだろうと、、。
外国の街へ足を運んだことなんて片手で数える程しかないけれど、万国共通でそうであるとひとり決めしている。
その国の地域性や個性が感じられるところは都市部の外に存在していることが殆どだ。
都市は人の欲望を体現化することによって成り立っている。
無駄はなるべくはぶかれて、凸凹は綺麗につるてんに、すたいりっしゅに、、、。
都会と呼ばれる場所の大体の様相は、国よってそう大差はない。
これは人間が求める幸福が似たり寄ったりだということになるのではないかと僕は思う。(
国や街は所詮、人だからからだ。

人間にも男女共に、「美しく」「すぐれている」とされている造形がある程度存在するが、此れも街のデザインと同じことが言えるだろうし、「個性」というものとは逆に位置し、人は身体に画一的なデザインを希求している。ということになる。
「個性的なお顔立ちされていマスワネ」
(これは果たして褒め言葉なのだろうか問題)

もし生まれてくる時に自ら身体のパーツをセレクトできるとしたら、都会の街と同じようにして、みんな大体同じような見目になってしまうんでないかしらん。
これは身体のデザインだけでなく、生活様式のデザインも同じようなことが言える。
それでも人間様の我儘ちゃんな処は、それだけじゃ納得いかんべ。というところにある。
人間は「個性」と「没個性」を同時に欲してしまう。塩コショウみたいに。
みんなと違っていたいけれど、みんなの側にいたいのだ。
こんな考えに陥るのもワンセットになっているのではないかとすら思う。
どの時代にもこうやって同じように考えるひとが腐るほどいたのだろうな。そして、この現代でも同じく。
個性とは、正義(正統)と一生戦っていかなければならぬ運命にあって、個性的な存在になるというのは出口のない険しい道だ。
没個性に個性をひとさじ一杯くらいが生きるうえではいいのではないだろうか。と思ってみたり。

この文章は個性的とは言い難くかといってたいりっしゅでもない。うぎゃあ。














追記
9月の11日に京都の町にある湯屋の休憩場で、生音でちょっこし歌わせてもらいます。
ほんのちょっこしなんですが、投げ銭制とのことなのでふらっと遊びにきてください。
僕はここで、湯を浴びた後に畳の上でうだうだとするのが大好きなのです。

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