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鏡よ鏡よ鏡さん


「鏡」と「自意識」について。

僕の好きな落語に松山鏡という噺がある。

数年前に落語にちょっこしはまって、本で読んだり、米朝、枝雀、談志、志の輔なんかの噺をインターネットを使って聴いたりしていた時期がいっときあったのだ。(記憶朧げのまま、書きつけているのだということをご容赦いただきたい)


「鏡」の存在を知らない村の人たちの話。
両親を亡くした村人がいた。男はそれにもめげず、しゃかりきに畑仕事に打ち込んで、村に貢献し、その功労を称えた村のお殿様が男に褒美として土地をやると言った。
男は、土地は今で手一杯だからいらないと断り、お金もいらないという。働かなくなるからだ。
男には欲がなかった。それに感動した殿様は、お前の欲しいものなんでもいいからあげようと言うと彼は、死んだ父親に会いたいと一言。
死んだ父親とその男の顔は瓜二つで、死んだ父の年齢と近いという事を知っていた殿様は、決して誰にも見せてはいけないのという約束で、城の宝である「鏡」を男に渡す。
こっそり持ち帰った男は納屋の中で鏡をみてびっくり、なんと目の前に父親がいるからだ。それから毎日、妻に内緒で父に挨拶をするようになった。
コソコソする旦那を怪しんだ妻は納屋で鏡を見つけて、覗いてしまう。
そうすると妻は大激怒。旦那を詰める。何故か。
自分の旦那が女を連れ込んだと思ったからだ。
私に黙ってこんなブサイクな女連れ込んでと、怒り狂う。(ここでひと笑い)
男は、違う、あれは父親だという。
妻は、違う、あれは愛人だと言って二人の意見がまったく噛み合わない。
その喧嘩を見かねた寺の尼さんが仲裁に入り、私が話をつけると納屋に入る。
そこで出てきた尼さんがにっこり
「もう大丈夫、二人が喧嘩して、いたたまれなくなった女は坊主になってました」

とオチがついて話は終わる。

僕はこれをはじめ本で読んだのだけれど、笑ったあとに、あまりに話が上手くできているものだから関心してしまった。

鏡は人間の自意識の芽生えを語るに避けれない存在だろう。
鏡のない時代は明瞭に自分を映し出すものが存在しないわけだから、かなり朧げな自己をもっていたのだろうが現代を生きる僕にとって、自分を写し出す媒体、鏡がない世界なんて想像もできない。
約束のある日に寝坊してしまって、適当な身支度だけして外に飛び出し、そういや今日、自分の顔見ていないななんて日があったりもするけれど、それでさえ少し不安を覚えたりするくらいだ。寝癖、ヒゲ、目ヤニなど自分の顔大丈夫かしら、、と。一日通して自分の顔をまったく見ない日は健康体である限りそうそうない。

いささか自意識過剰な状態にいる現代人。
でもいたるところで自分の姿が写しだされるんだからしょうがない。自意識が加速した原因の一つには、やはり携帯電話のカメラ、インターネットがあるだろうか。
自意識の肥大化に歯止めが効かないとなると、次はどんなものに、其れを加速させられていくのかという事を考えると少し怖くなる。意識の世界に果てはないだろうから。
今の世の中、身なりに無頓着であると人に迷惑をかけるなんて事すら言われてしまうくらいだ。
一度芽生えて暴走してしまった自意識を止めるのは、かなり難しいように思う。

案外、松山鏡くらいの世界のが心穏やかに生きれるのかもしれない。
鏡がなかったら、もっと人の為に生きる事ができたのかしら。


鏡よ鏡よ鏡さん、貴方と出会って僕は幸せになったのかしら、教えてくださいな。

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