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Run Run Run老いかけっこ


中年にさしかかると人は走り出す。
古本屋で不意に手にとった石原慎太郎の「老いてこそ」にもそう書いてあったし、次に手に取った三田誠広の「すずめ台つれづれ日記」にも同じような事が書かれていた。(三田誠広の方を購入した)30を過ぎると体の衰えを自分の中に発見し焦燥に駆られて動き出すのだそうだ。自分だけに理解し得る体力の翳りに、きたる未来を写してしまう。そこから抗うようにして足が動き出すというのだ。
迫り来る老いとの駆けっこ、、「老いかけっこ」を始めるのだ。

かくいう僕も焦りに駆られて、去年にランニングを習慣にしようと試みたけれど、すっかり失敗に終わってしまった。(ここに書くのを憚れるくらいに情けない結果であった、通算二度目の失敗)
運動が好きだったもんだから、走る事自体は楽しめる。むしろ楽しみ過ぎたのが失敗の原因であった。
記念すべき1日目、夏の朝涼のうちにと、ちょっとしたランニングコースがある公園に行く。まずは五周だと走り出してみるとこれが案外すいすいといける。五周なんか軽い軽い、もっとやっちゃえと結句、目標である距離の倍の十週を走り切った。午前中とはいえ夏真っ盛りを潜り抜けると体中に汗が吹き出る。家から持って来たよく冷えた麦茶を勢いよく音を立てながら呑み下し、立ち止まると心臓が激しく体を打つ律動が聞こえる、頗る爽快である。こんな感覚に見舞われたのはいつぶりであろうか、体が生き生きとしておる。その日は心地よい疲労感に包まれながら意気揚々と自転車に乗って家へ帰った。その後朝飯をいっぱい食った。いいじゃないかランニング、いいじゃないかランニング。

問題は次の日で、全身筋肉痛で寝床から起き上がるのにも一苦労、アキレス腱が痛む、腰も痛む、踵も痛む、まさに満身創痍な状態であった。完全にお調子に乗りすぎたのである。これが如何にもおじさんっぽくて嫌になる。
其れでも一日こっきりで辞めてしまうのは余りに情けないので、体を引きづりながら公園でなんとか五周を走りきる。何処かしらを痛めている状態でひょこひょこ走る。老年のランナーに楽々と抜かされる。
痛いところを庇って変に走ると、無事であったところまでもが痛くなってくる。そんな日が幾日か続いて、とうとう腰が痛くって走れなくなり、公園に行かなくなった。それきりである。
日常的に運動をしていたのなんて10年以上も前で体は錆び付いてるのだ、しかし頭はあの頃を引き摺っている。運動経験のある人が陥りがちなんだそうな。
昔、町の運動会で父兄が徒競走で、蹴つまづいて転倒するのを見て、鈍臭いなあ、何で転けるんだろうと思っていたものだけれど、僕が今の状態で走ったならば同じように醜態を晒すことになるだろう。あの時は走って、転けることなんか先ず無かったのになあと在りし日の追憶に耽る。
今は走るにあたって、負のイメージを想起されるようになってしまったのだ。何処かで食い止めないとまずい事になる、、、のはわかっていはいるのだけれど、、、。










追記
友人が鴨川をランニングしていたら、村上春樹とばったり。そんなこともあるみたい。

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